カテゴリー「大そうなこと」の4件の記事

2016年7月 1日 (金)

オトコの料理とスパイスのこと

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食味風々録(しょくみぶうぶうろく)。
ラヂオでこの本の存在を知ったのは、著者である阿川弘之が他界して間もない昨年初冬の事だった。話の内容から食べる事が好きな僕はその日のうちに甘損に註文した。これは読売文学賞を受賞した食をテーマとしたエッセイで、世の中のいろいろな事に腹をたてて、ぶうぶう文句を言っている自分がおかしいと、氏自ら名づけた題名なのだ。ビフテキとカツレツ・寿司・鰻などなど楽しみながら読んでいるうちに、その食べ物の歴史的背景までも知る事ができる。また巻末には娘である阿川佐和子との対談も載っていて食いしん坊にとっては読み応えのあるものだった。

 

 

その中で唯一の調味料であり、暫く振りに目にした文字が味の素だった。
氏はその章をこんな書き出しで始めている。昭和天皇の料理番だった秋山徳蔵という人の本には、大抵の食べ物は手づかみで食べた方が美味しいと書いてあり、その理由を考えた中に手のひらから味の素的放射能でも出ているのだろうかとあったらしい。氏はそれを読んで化学調味料の効き目を認めるような書き方がしてあり、著者は昭和天皇に時々、味の素を振りかけた料理を差し上げていたのだろうかと思ったらしい。氏は少年時代からの記憶が分かちがたく結びついている味の素肯定派であり、もしも著者に『実はちょいちょい使っていましたよ』と聞かされれば、秋山徳蔵やそれを美味しく召し上がった陛下にも親しみを覚えただろうという辺りは、思わず読む者をニヤリとさせる氏のユーモアなのだろう。
あの懐かしい赤い角丸長方形の缶と、白い割烹着のご婦人が瓶を持っている姿を知っている肯定派。
豊かな暮らしの中で段々味覚が敏感になってきた否定派と、グルタミン酸ナトリウムの味すら知らない若い世代にと概ね三つ程に分かれるのだろう。そんな事を考えているとフト疑問に浮かんだのは、いまでも味の素って売っているのだろうか?という事だった。さっそくスーパで再会を果たすと成り行きで一本連れて帰って来てしまった。テーブルにあった漬物に慎重にパラパラッとふりかけてみると、あの懐かしい白く細長い結晶とその味は僕にとってまさにノスタルジーの世界そのものだった。
氏の話の中であるジャンルの調味料として欠かせないものだと書いてあった。業務用の大量パック食材を扱う倉庫で、3~4㎏の大袋が山のように積んであるのを見つけたのはそれから間もない頃だった。

 

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食べる是即ち生きることなり。
これは僕の座右の銘まではいかなくてもいつも頭の片隅にあること。誰だって体に良いものを美味しく食べようと日ごろから思っているに違いない。その中で時々料理などもしてみる僕の考える事は、どうすればもっと美味しくなるかと言う事。レシピを見ながらさらに自分なりのアレンジを加え、材料品目も代用とか削減、妥協などはとんでもない話なのだ。
どうやらこの辺が道楽と言われる所以であり、コスト面や調理時間などで毎日料理を作っているご婦人方には敵う訳もないのは知っている。
家の台所には専用の引きだしがあって、中には誰にも触らせない大出刃・小出刃・柳の3本の僕専用の包丁と、ほんの1~2度しか使っていないスパイスが10種類ほど(これは先日ほとんど処分した)。それから産地が異なる岩塩が数種類。そこに赤い帽子をかぶった味の素がスパイスの一員として仲間入りした。それは氏が愛読していた古典的な家庭料理本の文章が引用されていたからだった。
”丁寧にとった出汁を使えば化学調味料は必要ないから、自分の本に味の素は殆ど出てこないけれど、それでは化学調味料は全く無意味なものかと言えばそうではなくて、例えば酢のものを拵える時に・・・・・”
”何かの具合で妙に物足りない味が出来てしまった時に用いるには便利な代物です。ただ注意しなければならぬのは最初から化学調味を計算にいれた調味は避けたいという事です”
    
そして氏はこの章をこんな意見で括っている。
”これは味の素是々非々の議論のうち最も中庸をえた良心的な意見ではないだろうか”と。
   
まぁ、それは良いにしても作るのは楽しいのだけれど、その後の後片付けはいまだに気が重い。

 

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このキッチンの主は知人の奥方。
テーブルでビールをご馳走になりながらこの景色を見ていると、いつも手際の良さにビックリしてしまう。単なる食材が魔法のようにカットされ、或いはボイルされ、またソテーされたりしてどんどん料理に変身していってしまう。ほどなく料理が出来あがり、奥方の薔薇に関するマニアックな話とそれをホームセンター通いでちゃんと支える知人の話。
それはそれは僕にとって梅雨のひととき楽しいランチの時間なのだ。

 

料理は芸術であり かつ高尚な化学である
 
ロバート・バートン       -

 

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2016年6月 8日 (水)

今日此頃

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ひたすら自分自身に正直であることは
 
いい運動である
 
ジークムント・フロイド

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年5月15日 (木)

「毒・薬」礼賛 (2/2)  毒の蠱惑(こわく)

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僕の伯父である . 徳さん  . が他界してもう二十年という時間が経つ。
彼もalcoholが大好きで・・・いや、それはもはや大好きと言う範疇を通り越していて、”酒で命を取られるならば本望だ”といいながらいつも上機嫌で呑んでいたものだった。そしてそれを横目で見ながら”何をバカな事を言ってんだか・・・”と思っていた若き日の僕もいた。画して DNAというものは争えないもので僕の祖父と親父は大酒呑み、母親の兄にあたる徳さんもその通り。だからこのごろ徳さんの歳に近づいてきて、alcoholによる大脳皮質のマヒ感に陶酔しているときにこの言葉を思い出すと、『あっ!この事ねぇ~』と思う時がある。僕はもう親父の歳を10歳以上も通り越てしまったけれど、もし生きていたなら彼もきっとそう思ったに違いない。

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酒は”百薬の長といわれているけれど、適度にたしなむ程度ならストレスを発散し気分をリフレッシュしてくれるから、それこそ健康に良いのかもしれない。されども・・・それがそううまく”たしなむ程度”で終われないのが人間(特に僕のような人種)なのだろう。それが故に体をこわしたり、人間関係で失敗したり、思わぬ事故をまねいたりもするのだから。

僕はタバコを休んで10年近くになるけれどいまだ止めたとは宣言していない。何故ならばまたいつ吸い始めるか分らないから。それまでは3年吸って3年休むパターンを繰り返してきたから、今回は休んでいる期間が少し長引いているだけだと思っている。10(3)年も吸わなければもう止めたも同然だろう?と言われるけれど、決してそうではない事を僕自身が良く知っている。そのきっかけのストーリーはいつも酒場。吸わない時はただ煙たいだけのタバコが、ある日何の前ぶれもなく気になってきて、口と灰皿を行き来するタバコの火を目で追うようになる。そして”悪いけど、一本くれないか?”と。そこから先は中学時代に初めてタバコを吸ったあのクラクラ感覚を味わい、帰り際にもう一本と言って・・・・・いまはタスポとかの制度があって出来ないけれど、自販機にコインを入れたらもう終わりだった。

ギャンブルは才能であると僕はいつも言っているけれども、あながち間違いではないと自分では思っている。だからパチンコもマージャンも二十歳でそれに気づいてやめてしまった。僕に才能がないから言うわけではないのだけど、これに関してはさっぱり良い事がないと自分で気が付いたから。もちろん胴元にとっては利益はあるだろうけれど、賭ける側が常に利益があるのであれば、それはもうギャンブルと呼べるものではないのだろう。だから”賭け”というものは原則的に損をすることが宿命であり、それ故の賭けなのだと思っている。それに何事も同じだけど、上達するまでに相応の授業料を払わねばならない。

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これらの毒は健康やお金や時間や、体力までも無駄に消費しているのかも知れない。
ではそれを百も承知でこんな割に合わない不健康な事をするのかと言えば、人間の持っている本当の一面という解釈もできるような気がするのだ。『酒もタバコもバクチもせずに、それで百まで生きた馬鹿』・・・と昔人も言っている。
これはむかし何かの本で読んだ件なのだけど、いまでもこれを目にしたりするとつい笑ってしまうのは、このこと自体が人間の本質をついているからかもしれない。いっさい体の為にならない事や毒になることをせずに、いつもキチンと心身を保ち健康・健全に生きる・・・・これも結構なこと・・・。
それで・・・百歳まで生きて何が面白い?というこれも毒気の発想だけど、僕は絶対こっちを支持するのだ。

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こんなことを書いていたら僕自身が初めて”毒”とであったのはいつ頃なのだろう?と考えてみた。
それはたぶん小学校の低学年の頃、大人たちが美味しそうに食べていたお菓子のようなものを”食べてみたい”と言った時に、それを毒とは言わなかったけれど、”苦いから”とか”辛いから”とか言われたのと同じ事を、自分が親になってから言っていたのを思い出した。
だとすれば毒そのものの中に美味や甘美なものがあって、だからその存在に引き付けられ、近寄ってしまうのかも知れない。
表が薬と書いてある何気ない絵柄のカード。
それをひっくり返した時に何があるか、なにが起こるのかなど、もとよりリスクは承知しているから。是非とも裏の毒にも触れてみたいと思うのは僕だけなのかもしれないけれど、せっかく生きているのだから、毒というのも体験してみたいものだ。


   魅力的・・・人を魅く力がある
    魅惑的・・・人を魅き、かつ幻惑させる
     蠱惑的・・・色香によって人をたぶらかす (例えばルパンと峰不二子のように、その魅力には到底逆らえないし・・・騙されてもいいと思ってしまう・・・)

やはり”毒”とは人にとって本来、蠱惑的(こわくてき)であるべきものかもしれない・・・・・・・・・・
 
 
 カノンという解毒剤

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2014年4月23日 (水)

「毒・薬」礼賛 (1/2)  毒の魅惑(みわく)

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つい先日のこと、偶然ながれてきたラヂオのエッセイにいきなり引き込まれてしまった。
それは”毒”をテーマにしたもので最初はえっ!と思わせておきながら、コレのない人生なんて・・・という尾ひれがついていて、それこそ
エピュキュリアンの僕にとっては実に楽しい時間だった。

     
  
話の中で彼は、健康志向の世の中だからそれはない方が良いにきまっている。けれどもその毒という言葉の周囲には何だか、得も言われぬ心が魅かれる気配も感じると言っていた。なるほど、最近のメディアには健康に関わる食品・器具・雑誌の広告が多い事に気が付く。そして僕も昔から漠然と抱いていた毒に対するイメージは、こういうことだったのかと妙に納得してしまった。
さらに彼はつぶやく。人間という動物はそうは一筋縄ではいかないことが多くて、生きてゆくその裏にはもう一つの真実というものも存在し、それは体に良いことではなく毒なることをしてしまう真実のことだと。例えば、早く寝ればいいのについつい深夜までDVDを観て夜更かししてしまったり、体重を抑制しなければいけないのにドカ食いしてしまったりといった事らしい。

ここで僕の場合を考えてみれば、alcohol以外は至極健康的な生活をしている。5年前の食生活の結果がいまの自分のカラダであることも知っているし、それはこれからどうにでも変えられる事も。”食べる・・・是すなわち生きることなり”という意味も知っている。
そうなると僕にとっての最大の毒はやはりalcoholなのだけれども。     いや、まてよ・・・・。
それは神代の昔から作られていて、それこそスサノオミコトも飲んでいたはず。こうした文化は先祖が文字をもたない時代からの事で、口伝いに神話化していったものだろう。そう考えてみれば僕が生きてゆく上でのもう一つの真実なのだ、という主張も十分に弁護できる。夜の会合の飲み放題に必ず持参する”節制”とやらは、いつしかグラスの中の氷になっているし、そのあとハシゴして財布と体力と気力を消耗したりと僕も考えてみれば日常的に冒している未必の故意がたくさんあるのだった。

こんな話を書いていると、僕こそが毒のかたまりではないかと思ってしまう。
ずっと昔に読んだ確か随筆だってそうだ。品行方正で、潔癖で、嫌味がなく、さしたる主張もしないから周囲のだれにも嫌われない、これぞ大人の好人物というもの。その時思ったのがそんな人物像も無難でいいなぁと考えたのが2割。あとの8割は世の中そんな人ばかりだったらウンザリするなぁ~と思ったことを覚えている。
じつは僕がお世辞がものすごく苦手なのも毒に起因しているのではないだろうかと思った。僕は人から言われたこと(思われているかは知らない)はないけれど、自分では結構な毒舌だと思っている。思った事はけっこうズケズケ言うほうだし、思ってもいないことはには口が海ぞこの貝になってしまう。お世辞とは分かっていてもそれを言われて気分を害する人はいないから、会話だってずっとスムーズに進むだろう。日常会話などで交わされるそれが僕の場合は実際に思った事でなければでてこないから困ってしまう。つまり巧言令色のような物言いがものすごく苦手なのだ。ごく普通の会話の中でも立て板に水のように、相手の持ち物から服装身なりまで称える事が出来る人がいるけれど、そのような人をいつも羨望のまなざしで眺めているしかない。

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やらなくてもいい事をやる。いや、やらない方がいい事をやる。やってはいけないと言われるとなおさらやりたくなる。
表面的に健全・健康志向のようにふるまいながら、もう一方ではやはり真逆の事に惹かれるところがあるという事実というか真実。
それに毒気を持つ人達もそうだ。彼らはなによりも存在感があるし、前出の好人物なんかよりもそんな人物に僕は興味を抱いてしまう。周囲の善良な人たちはだいたいその毒気にあてられて参ってしまうのだけど、その人物が毒気を抜かれてしまったらどうだろうか。それはパワーやエネルギーがみたいなものが抜かれてしまった事であり、視覚的にはまるで風呂上りのシーズー犬のような気の毒な見栄えのようになるだろう。
病院で処方される薬は適量を越えれば、ほとんどすべてが毒になるのはご諸兄方もご存じの事。これは毒の量さえ適量であれば名称が薬となる事を意味しているのだろう。表が薬だとすれば裏は毒。表だけのカードはやっぱりつまらないから、何気ない絵柄のカードをひっくり返すとそこには、別の心ひかれる情報が記されていたりする。だから毒というものも人生の中のスピリッツの一つなのだと思う。
   

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