カテゴリー「記憶のFilm」の32件の記事

2017年3月 1日 (水)

海風ストレート again!

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幼い頃に初めて訪れた場所の記憶というものは、時としてより深く刻まれるもののようだ。
この海岸は僕にとって何もかも初めての『海体験』というステージだった場所。それらは初めての海水浴であり、寄せては返す波の不思議さに夢中になったり、潮干狩りを満喫した楽しい記憶だった。そして旅館に泊まったということもきっと初めてだったのだろう。なぜなら夕食や朝食の時に銘々にお膳で供される初めてのスタイルに子供心にも感嘆した記憶がある。 この土地にはそんな理由で特別な思入れがあったのだけど、進級するにつれて仲との遊びが楽しくなりついつい足が遠のいていた。
   
成人に近づき運転免許を手に入れると、誰しも行動半径が飛躍的に広くなるもの。
そんな環境の中ではついつい昔の記憶が甦り、年一回程はこの景色に無性に会いたくなりステアリングを向けるようになっていた。中でも砂洲を利用して作られたこの約6kmのストレートは、冬でも天気が良ければ窓を全開にして汐風の中をお気に入りの音楽と共にゆっくりとクルマを転がす、それはそれはお気に入りの場所だった。そんな中で偶然にも、あの津波が襲う13ヶ月前に何気なく切り取ったこの絵が昔の記憶を語るただ一枚のものとなってしまった。
震災の後しばらくして、ネット動画で偶然目にした大好きな松川浦を襲う津波の映像は、言葉にならない程にショッキングなものだった。いつも普通に通っていた漁協の先のクランクを船が流れていったり、沖合いから押し寄せた津波がこの砂洲にもの凄い高さで襲いかかったり。ようやくこの場所を再び訪れる事が出来たのはその一年後の事だった。
想像はしていたけれど、そこの光景はガラッと様変わりしていた。港の建物や砂洲と道路がきれいに無くなっていて、その内側にあった海苔養殖や潮干狩りで賑わった豊かな潟湖などなかったかのように外海と一続きになっている姿だった。

 

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以来、真冬になると再びここに通い始めた。
手前の港などは新しい基準での道路や港湾施設の改修がすすんでいるのだけど、いまや沖となってしまった砂州は工事に入る気配すら見えなかったのは一昨年までのこと。昨年はなぜ来れなかったのか記憶にないのだけど、二年ぶりにこの港にクルマをすべり込ませたのはつい二日程前の事だった。そして沖を見て”あっ!”と思った。あのクレーンの高さから推定すると10m以上はあるだろう防波堤でもう東側外海から遮断されて再び潟湖になっていた。漁船もすこしづつ荷物の積み下ろしをしていてようやく活気が戻りつつあることを感じた。きっとあと2年以内にもあの道路を走る事が出来る予感がして嬉しくなったのは言うまでもない。

 

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天気も良いことだし、ここまで来たのだから外海が見たくなって南に向かった。
南相馬市に入り右田浜海水浴場の手前でクルマを停める。けっこう風が強かったけれど、知人に添えるための風景を探しながら穏やかで明るい海の眺めを楽しんだ。
そしてハッとしたのは昨日の夕方の事。福島・宮城にまたがる震度5弱の揺れの震源は紛れもなく昨日見たあの美しい海の沖合だったから。
今回のは昨年11月以来の余震だったようだけど、これ以上大きな災害に日本が曝されないよう切に願うばかりだ。

 

 

 

 

 

 

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2016年3月18日 (金)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅸ) 1827 days ago ( epilogue )

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一昨年から続いている”牡蠣小屋”ならぬ師走の牡蠣パーティー。
会場を提供してくれた知人からは早々と11月には催促にも似た電話があった。牡蠣の調達は僕の担当だから仕入れ先に聞いてみると、12月初旬頃になれば身入りがぐっと良くなるとの話だった。

 
めずらしく雪の全くない昨年の師走。
仙台に行けば必ず顔を出す馴染みの店から牡鹿産の牡蠣をごっそりと仕入れると、その足で僕は北へと向かった。三陸自動車道の現在終点である登米東和からまず向かったのは南三陸町、そこから45号線を北上して最終目的地は陸前高田市だ。
途中の気仙沼横丁に寄って遅い昼メシ。
師走それも平日の昼過ぎなので混雑はしていないけれど、さまざまな店があって気になる店をマークしながら1往復半ほど彷徨っていた。いま思い返せばその時はきっと”孤独の具留目”の語郎さんのような目つきをして歩いていたような気もする。
中ほどにある定食屋の黒板が再々目に留まっというよりも、僕の摂食中枢がロックオンしていたのは蛍光ペンで書かれた-メカジキ-という文字だった。その時不用意に店の扉が開き、人懐こい笑で”良かったらどうぞ”と声をかけられてハッとした。それは以前遠くの街に越した知人に輪郭がとても良く似ていたから。吸い込まれるように店に入ると続くように入って来たのは、僕と同じように先ほどから店を物色していたカップルだ。少し遅れて大きなバックを肩にかけて入って来たのは女性客は、地元の常連客だというのは二人の会話からも想像がつく。こんな時に限って三人とも全部違うものを頼むものだから、奥の調理場で忙しくしている彼女に代わって、お茶や盛り付けの終わった小鉢を運んでくれたのはその常連女性客だった。
”これは山形のつや姫だから美味しいよ”と、かなり盛りの良いご飯を運んで来てくれた。話の中でこの横丁も来年9月で終わってなくなるのだという事も聞いて、ここに来る途中も解体している建物が沢山あった事を思い出した。”ところでお客さんはどちらから?”と訊かれ、”うん? つや姫の地元の山形だけど、一番南の端で雪の多い街”と答えると”もしかして、米沢?”と言われてビックリした。なんでも彼女の親父さんは中山でこの米を作っていて、何度か上杉祭りや雪灯籠祭りで米沢をおとずれた事があるらしい。世の中なんとも狭いものだ。

夕方からこの店は居酒屋に変わる。
9時閉店という営業時間というのも中学生の門限のようで、長居は無用の大人の嗜みを要求しているようなこの時間。駐車場までブラブラ歩く道すがら青空を見上げて、あの店で女将の隠し玉とやらを食べながら酔ってみたいという、当てのない晩メシの妄想をしていた。

この横丁の解体が9月から延長されたことを知ったのは、それからふた月程過ぎた日の東北版ニュースでのことだった。

 

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陸前高田市。
仙台から一時間程の太平洋沿岸で一番好きな街だ。初めてこの街を訪れたのはもう20年以上も前になるだろうか、目の前には広々とした湾が広がりその一番奥まった高田松原と呼ばれる海岸に多くの松が生い茂っていて、まるで東北の三保の松原のようだと思った記憶がある。

この街の復興シンボルとも言われていた、嵩上げ工事の土砂を運んだベルトコンベヤーが役目を終えて解体されるということを知ったのは、昨年秋口のニュースだった。
幸いな事に希望のかけ橋は今春からの解体の予定らしく、あの気仙川を跨ぐ姿を見る事が出来るかもしれない。そして間もなく五年を迎えようとしている高田松原の今の姿を自分の目で確かめたいという思いもあった。

 

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あの日以来NHK仙台から毎週放送している”被災地からの声”という番組がある。
これは現地で偶然に会った津波や原発で被災した人たちに、事前の打ち合わせやリハーサルなど全くなしに直接話を聞いていくという構成の番組だ。普段着の人たちが自然に口に出すのは、感謝であったり本音であったり、当たり前の事だけど行政への不満だってある。僕は放送開始からずっとこの番組を見続けているけれど、直後に比べて語られる内容が少しずつ変わってきていることに気がついた。それは一昨年あたりからその中に希望であったり、また決意であったりする内容が少しづつ多くなって来たことだ。初回からずっと石巻出身の津田キャスターが司会を務め、最後にまとめのコメントを語ってくれる。その中でいつも語られるのは、とにかく全国の人たちに東北に来てほしいということだ。そうなのだ、観光であれビジネスであれ、東北に来てどんな形でもいいからお金を落としてくれば、それが巡り巡ってこれからの真の復興につながるということなのだろう。

  
  

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以前この橋のから先には松林が生い茂り、右手の水門からは気仙川の河口が見えた。
いまはその松林も巨大な防潮堤になってしまっていた。今回の教訓は、それこそ千年先の人を守る為の賢い選択としてこんな形で生かされたのだろう。そしてこの松の子孫が再び高田松原を形成してくれるに違いない。

 

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先週末は5年の節目と言う事で各局がこぞって特集番組を放送していたけれど、あの定食屋の店主や常連客の話を聞いて、現場(現地)では5年という日は節目でもなんでもなく、ただの通過点なのだという事を教わった。
寄付や義援金の時期が過ぎた今、同じ東北人としてこれからずっと出来る事は、とにかく機会あるごとに東北の太平洋側に足を運ぶことなのだと思った。

 

<3/6>

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2016年3月11日 (金)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅷ) 1827 days ago ( chapter ) 

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これらの絵はPC内の倉庫で四年以上もの間ずっと眠っていたものたち。
何度かビュアーで眺めていたのだけど、この穏やかな光景の背後に広がっていたあの光景を思い出すと、現像する気にもならずにRAWデータのままでひっそりと存在し続けていた。
この海岸は近くの水族館からの帰りには必ずこの海水浴場に降りて、海の水に触れて帰るというお気に入りの場所だった。高台を走る県道から脇道に入るとどこにでもあるような海沿いの集落が広がり、その中を通り抜けるとこの海岸に出ることが出来る。僕がこの絵を切り取ったのは2011年も暮れようとした頃で、大地と海が荒れ狂ってからもう九ヶ月という時間が過ぎていた。

  
県道から脇道にそれてすぐに気がついたのは、この辺りからはまだまだ海は見えなかったはずだったということ。
けれどもその先はあたかも田んぼや畑であるように見通しが利くようになっていて、遠くにはうみが見えていた。くるまを進めるとそこにあったのは夥しい数の家屋の痕跡だった。道路の両側にはかつての建屋の形を連想させる白い基礎コンクリート累々と並び、ここがかつて広い集落であったことを語っていた。途中の空き地にくるまを停めてしばらく辺りを歩いてみる。生活感のあるゴミの一つでも落ちていてくれるとそこに人々の生活を感じられるのだけど、それすらも見つける事は出来なかった。いやそのこと自体がもはや何百年も経った遺跡のようにすら思えてきたものだ。
その日はめずらしく風のない日で、動くものは遠くに見える波だけだった。
風の音すら聞こえない茫漠と広がる無音の世界。見渡す限り人影のないこの場所に一人で立っていると、家の基礎たちが幻灯機のように、かつての風景を映しだすようなおかしな感覚に襲われる。半分その場を離れたいような気持ちで、そのまま水際までの200m程を歩き始める。

水辺に降りて改めて実感した。
遥か沖合いの海底が放った水の壁はあたかも自らの行く手に何もなかったかのように、この5m程もある防波堤を易々と乗り越えていったのだろう。

冬至の頃の日暮れは早い。
だいぶ傾いてきた陽射しの中に子供に何かを話している父親がいた。彼が身振り手振りを交えながら話していた事は、きっとここで一体何が起きたのかという事なのだと遠目で見ていた僕にも容易に察しがついた。あの時ははまだ小さいから内容はあまり分らないのかも知れないけれど、いつかその子が父親になった時にきっと同じ話をしてくれる事を願いながら。

 

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あれから時がすぎ何事もなかったように、いつもの澄み切った冬のそらと海が広がっていた。
これはきっとこの水の惑星で悠久の太古から続いてきた日常の光景なのだろう。今回の事はきっと地球という閉鎖された星の中での出来事と考えれば、台風の上陸と同じように今まで何度となく繰り返されてきた、自然現象の一つに過ぎなかったのかも知れない。けれども、今回は予測という文明の知恵も及ばずに失われたものは、あまりにも、あまりにも大きすぎた。

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もう日がとっぷりと暮れて、ヘッドライトの中をセンターラインがナトリューム灯のように流れてゆく帰りの道すがら。
僕は先ほどの光景を一つひとつ思い浮かべながら、ある思いを事実なのだと信じようとしていた。
それはあの集落の地形だった。
海岸と山に挟まれた細長い土地でそこに住んでいた人達は、すぐ裏手の山に避難して全員が無事だったのだということを。

 

  
  

 

讃美歌第2偏167番   < 白鳥 恵美子 >
   

 

この美しい歌声を
  
五年前のあの日
西の十万億土へと旅立った
多くの御霊と
  
昔からそうだったように
これからも何ら変わらない
穏やかな東北のうみとそらに捧ぐ

 

 

<4/6>

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2016年3月 4日 (金)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅶ) 1827 days ago ( prologue ) 

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    は
   人 か
  な の な
  ん 夢 い
  と と と
  詩 考 い
  人 え ふ
 で た 字
 し 人 を
 ょ は 
 う  
○ ○ ○ ○
 
 

<5/6>

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2015年1月15日 (木)

Nostalgia (3/3)

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フィリス・セロー
 
 

  
 
昭和。。。なかでも青春というひと時はほとんどの人がノスタルジーポイントとして挙げるのではないだろうか。
これはその時期を通りすぎた僕らが思える事であって、いまはただ目の前に洋々とした時間が広がる世間という海原に漕ぎ出したばかりの彼らにとっては、到底理解は難しい事。僕には初詣という習慣はないのだけども機会があれば、神社仏閣には参拝するのは好きな方。この正月に長男と呑んでいて初詣の話になった時にハッとした。実はここ数年この二人とは一緒に初詣に行った記憶はなくて、その作法を教えていなかった事に気が付いた。
試しに参道に入ったらどう歩く?と訊けば普通に歩くと答え。水場での禊の仕方は?と訊けば、みそぎって?知らねぇ~と一蹴されてしまった。この絵はこれはではいかんと思い、次の日の昼に彼らを初詣に誘い出した時のもの。参道の真ん中は神様の歩くところだから参拝者は端を歩かねばならないのだとか。禊の仕方、それに重要な最後の柄杓の仕舞い方。それに一番スタンダードな参拝のスタイルである二拝二拍手一拝。これについても二拍手のあとに、仏を拝む(願いを込める)ような間を置いてはいけない事などは教える事が出来た。しばらくは彼らにとっての初詣はデートの口実でしかないのかも知れない。
けれども何時か、神といふ寄る辺を見つけた時に思い出してもらえばいいのだけどと願うばかり。

彼らのぎこちない参拝を見ていて思ったこと。
それは僕がどんな親父として映っているのだろうかということだった。つまり僕が経験していないことを彼らは経験している訳で、僕の場合は卒業後の進路など母親に相談しても仕方のない事だったし、どうするかは自分で決めなければならなかった。
以前僕はサラリーマンという職種だったけど、組織というものに何とも馴染めなくて思い悩んでいた。それを我慢して勤め上げて定年を迎えた後の自分に対して我慢できなかったというのが真実なのかも知れない。
そんないきさつがあって今の僕は自営業を生業としている訳だけど、最近息子たちの身の振り方の話題になって周囲の人からは後を、継がせないのかもったいないと言われる事がある。親父も自営業というジャンルの仕事をしていたのだけどきっと僕自身に世襲とか跡継ぎとかそんな概念を持ち合わせていないから思わない事なのだろう。
いま彼らを見てて思ふこと。僕の親父が幼少期に他界していなければ、きっと後を継ぐ、継がないで衝突していたに違いないという事だった。やもすれば僕の方が家出(出家)していたかもしてれない。聞き及ぶ範囲では父子の確執はそうとう重篤なものであり、また絆の強さも素晴らしものらしい。

僕の中で彼らに対する想いというか根底にあるものは”どちら様も人生一回限り”。
自分自身がそうしてきたからだろうか、自分の人生なのだから自分の思った通りに好きな事をやればいいだろうと思っている。そして青春というノスタルジーの中に思いだしたことは、何をしても人生で無駄な事(時間)はないのだということ。またその洋々とした青春といふひと時の時間の中でならいくらでもやり直しが利くことだ。
   
うら若き僕にこんな様々な世の中のお作法を教えてくれたのは、ほとんどがもう逢えなくなってしまったむかしの親父の取り巻きの人たちだった。

 

今回はだいぶ本題から逸れてしまったけれど、最後にこの曲で締めくくろう。

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ノスタルジーで思いだしたこの曲。

ボーカル・・・抑制の聴いたビヴラート。  それにギター・・・この哀愁をおびた弦の響き方。

それらの構成要素の全部が僕のノスタルジーといふ、海馬のスゥィートスポットを直撃してしまう1曲。

 

ちあきなおみ 黄昏のビギン

 

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2014年7月 5日 (土)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅴ) 

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たとえば音楽と土地の名前はどこか似ている。
何の前ぶれもなく耳に入ってきたワンフレーズのメロディや地名の綴りが、瞬時にその時の時代(シーン)に自分を引きもどしてくれるから。ましてやそれが特に印象深いシーンであればなおさらの事だろう。

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三年前の夏のこと僕はこの場所で、これもまた五年ぶりに再会した知人と話をしていた。
彼とは仙台で . 友人のS . を通して知り合い、以来僕にとっては色々な面でメンターを務めてくれる人。自分でいろいろと思い悩む事があると、その事は直接話さなくても会うだけでなんとなくほっとした気分になる人物の一人。彼に会うたびに回りの俗世を横目で見ながら、コツコツと自分のやりたいことをやっているその姿勢が、いまだに俗念を捨てられずに苦しんでいる僕にいつも清々しいエネルギーを注ぎ込んでくれるのだった。僕が実家に戻るのと時を同じくして、彼も小名浜に引っ越してしまった。

彼は以前から詩人:荻原朔太郎が大好きで、その時も普段誰もが使う日本語の言葉が感性鋭い詩人の手にかかると、途端に宝石のように光り輝くようだと感嘆していたのを鮮明に覚えている。
話の発端は彼も僕も宮崎アニメがとても好きな事からだった。
ちょうど5年前に公開された”ゲド戦記”の「テルーの唄」が、荻原の詩「こころ」に着想を得たものであったという事はそのとき初めて知った。そういえばその数日前に公開された”コクリコ坂から”のテーマも、同じ手嶌葵が歌っていたのは面白い偶然だ。

そんな彼からメールが届いたのはそれから一年ぐらい過ぎた頃。
シンガポールへ仕事絡みで奥さんと移住したとの連絡だった。偶然というのは面白いもので、このハーブ園での記憶を呼び起こしたのは朝のラヂオ番組。土地の名前に反応して記憶の書庫を彷徨っていたら、追い打ちをかけるように流れたのは手嶌葵の歌声だった。


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2014年6月15日 (日)

明治のかをり

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広大な敷地に江戸中期から明治までの古民家が移築されたこの公園は、好きな場所のひとつ。
茅葺の屋根や人がよく歩く部分が少しヘ凹んでいる土間にむき出しの束石など、いまではまずお目にかかれない懐かしい光景に会える場所。それに母屋に隣接した馬小屋や車井戸なども配置されていて家の内部には鍋釜や竈、農耕器具に、今時は時代劇でしかお目にかかれない絣のうすっぺらな布団など、当時の質素な生活を窺わせるものが展示品として置いてある。面白いのはそれらがたったいままで使っていたかのように展示されていて、この園の素晴らしいところは入口や縁側から中をのぞいて見学するのではなく(もちろんそれもできるけど)、土間にはいったならそこで靴をぬいで家の中に上がって、実際にそのノスタルジアな空間に身を置くことができること。

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いちばん道路から遠く隔離された奥まった場所に建っている芝居小屋。
平日、それも早い時間なのでここまでの道のりで人に会うこともなかった。入り口の土間で靴をぬぎ、備え付けのスリッパへと履き替えるとチケット(木戸札と席札)を買う窓口を通り劇場内へ。普段は上席である左右の高い桟敷席への立ち入りは出来ないので、枡席の一番後ろに腰を下ろしてみる。そこで僕を待っていたのはそれこそ”しん”という言葉すらそぐわない静寂。そんな中で右手人差指で押し込んだボタンの発する音はReverb(残響)も感じる程の大きなものだった。入り口の解説板によるとこの芝居小屋・・・侮るなかれで、回り舞台でその床下には奈落があり、花道・ぶどう棚・ちょぼ席など芝居小屋として必要なものはひと通り備えているらしい。この芝居小屋では同県で有名な桧枝岐歌舞伎や、近隣の街の神楽や獅子舞などの無形文化財も上演していると書かれていた。
そんな事を思いながらひとり、静寂の中でこの松羽目をながめていると、この小屋が繁華を誇ったころの観衆の拍手・喝采が聞こえてきそうだ。

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2014年6月 5日 (木)

若かったと いふ事

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このスキー場をはじめとした多くのゲレンデがそうであるように、スキーヤーやボーダーの輸送には普通リフトが使われる。
けれどもここだけは事情が別で真冬の積雪は10mを超える、つまりリフト自体が雪に埋もれてしまう珍しい冬季休業のスキー場なのだ。滑走可能な期間は11月~12月半ばと、今年の春夏スキーのオープンは4月12日からだった。夏スキーと言えば芝の上を無限軌道のローラーを履いて滑るグラススキーが一般的だけど、ここでは7月末位まで雪上のスキーやボードを愉しむ事ができる。

先日庄内からの帰り道にひょんなきっかけで、随分と久しぶり振りにここまでやってきた。
今では高速道路が出来てその存在すら忘れかけていたこのスキー場。山道の国道からさらに十キロ以上も山深くに入りこんだこの場所に立った時、ついさっきまで潮風に晒されていた皮膚の記憶と雪の白さ、それにこの気温が”時のアーカイブス”から引き揚げてきたもの。
それは遠いむかし仲間たちとのアイアンレースならぬ、若いから可能だったアイアンツアーの記憶だった。

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それは30年も昔の事、言い出しっぺはこの僕だった。
みなで呑みながら海に行く相談をしていた時に、どうせなら月山で夏スキーをしてそのまま庄内浜に出ようというアイディアが浮かんだ。
そこは若気の至り、みな大賛成で話はすぐにまとまった。6人は2台のクルマに分乗してまだ暗いうちに出発、お昼近くまでスキーを楽しんでそのまま庄内平野経由でいつもの笹川の流れにある海水浴場へ。夏の陽は長いからそのまま日没まで砂浜であそんだ。
その頃の男の子はとかく目立ちたがりなもので、ルーフキャリアにスキーを満載した2台のクルマが海水浴客の沢山いる真夏の海岸を走るとこうなる・・・・僕の狙いはバッチリだった事は言うまでもない。
家に戻ったのは確か21時を回っていて、実に17時間の夏の遊び。
スキーと海水浴を同時に楽しめたのはきっと”若さ”という体力と気力があったからだろう。30代頃前半までは仕事で徹夜をしても、一晩眠ればなんともなかったものだけど、40代になるとそれが三日も尾を引くようになり、このごろはそんな事をすれば寝込んでしまいそうな気がする。

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その狂気の遊びから10年後、仲間のKが突然僕らの前から姿を消して十万億土の彷徨へと旅立ってしまった。
彼は学生時代は山岳部に所属していて、僕に山の楽しさを教えてくれたのも彼だったしスキーの腕前もピカイチで、あのキレのいいウェーデルンのターンは誰もかなわなかったものだ。以来それぞれの仕事も忙しくなって、顔を合わせたのは半年程まえの事だ。両親も同居していてまだ健在なのに本当に気の毒な事だった。夕方知らせを聞いてかけつけると奥さんが話してくれたのは、彼が持病を持っている心臓が原因で、よる床についてそのまま目覚める事がなかったそうだ。いつもの穏やかな顔をながめていると涙が止まらなかった。

なぁ和広、、、あん時は楽しかったなぁ~。
それに見てみろや、あのターン。
お前の方がずっとキレがあるぞ。

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2013年7月31日 (水)

會津のSoul。  と大きく出てみたけれど、 実は・・・

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この南の街は各シーズンごとに、なぜか手綱が向いてしまう好きな場所だ。
ちょうど2年と4ヶ月の事。繁華街の国道を通過するだけだった街の裏路地に、好奇心から意図的に迷い込んでみたのが始まりだった。後で知ったのだけど、偶然そこが今ではすっかりお気に入りになってしまった、野口英世通りと大町通りなのだった。
いつもの事だけど知らない街の路地を歩いていて、角にくるたびそこを曲がるかまっすぐ進むか迷う。角を曲がってみようと決めたときは、もしその先に何もなければまたここへ帰ってくればいいと思って曲がる。そして二度と戻らないこともあったし、またそこに帰ってくることもあった。なんとなく人の人生に似ているような気がする。   

初めて間近に見る赤瓦はそれはまた見事なものだ。
せっかく明治以前の姿である赤瓦へと、葺き替える工事が終わるとほぼ同時に、観光の目玉と言えるこの城館をも揺さぶったのが震災だった。幸いハードウェアの被害はなかったと聞いたけれど、観光資源が豊富なこの街がそれからたどっていったのは、人間が神の火を粗略に扱って被害を蒙った県であったという風評だった。ドキュメンタリーなどで度々報道された通りに、本当に見ていて気の毒なものがあった。けれども地元の人たちのそんな憂鬱を一気に吹き飛ばしてくれたのは例の大河ドラマだ。平日の様子しか分らないけれど人出は昨年とは比較にならない程に増えている。

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僕がこの街に会いにくる主な目的と好きなもの。 それが見ていて飽きない町並みとカツ丼だ。
この地方で普通に言うそれは、トンカツを卵と玉葱でとじた一般的なものではなくて、ソースカツ丼の事だと知ったのはつい2年前の事。
太さが店によって少し違う程度で、味やトッピングが比較的安定している(想像がつく)麺類とは違い、これがなかなか侮れない。基本はホカホカご飯の上にキャベツの千切りを敷いて、最後にソースをからめたトンカツが乗るのだけど。店によって使う肉の部位や切り方。それに重量、
特にソースタレに至ってはユーザーにとって一番の重要事項だろう。その他普通のカツ丼のようにソースタレで煮込んだものもまであるらしい。それらを知り尽くしている地元の人は良いのだけど、僕のようなたまに訪れるよそ者にとってはパンフで見ていくのなら想像もつくのだけど、それがなければどんなものが出てくるのかさっぱり分らないという楽しみもあったりする。箸でカツとキャベツの厚さを確認したなら、この三層構造の小宇宙をどう攻略するかを考えるのもこれまた楽し・・・なのだ。
   
   
   

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13070502この美しい赤瓦の絵を見ていたら、先日テレビからいきなり耳に飛び込んできたある職人の話を思い出した。
それは”仕事を作業にしないこと”というものだった。その言葉に瞬時に反応したのは、僕自身がそうなりかけていたのかも知れない。普段めったにテレビを見る事のない僕がメモをとりながら夢中で見入ってしまった。仕事への探求心を失えば、単なる作業になる。日々同じ仕事に変わらぬ集中力を注げるか・・など、僕がいつも再確認しなければならない事をたくさん思い出させてくれた。
そして彼は最後にこんなことを言っていた。
若い頃は無我夢中でやっていた(たぶん今の僕)、けれど今は何かを振り返りながら仕事をしているんだ・・・と。

誰が見ても完璧に仕上げられたその仕事ぶり。
けれど自身の採点は80点。彼曰く、合格点には達しているがまだまだ先があるという。”もういいや、と言ったとたんにお迎えが来ちゃうよ”そう言って明るく笑った笑顔には、とても85歳とは思えない生き生きとした職人魂が見えていた。祭りが仕事より大好きな生粋の江戸っ子職人に、僕もこんな風に齢(よわひ)を重ねる事を目標にしなければと、思わせられた。

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2013年7月 5日 (金)

栗の花が咲くころ

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早苗月とも呼ばれる五月の田植えからひと月半。
この地方も梅雨入りの時期を迎えて、なおかつ今年も前半戦を過ぎて五日も経ってしまっていた。この時期の田圃をみて、大人たちは稲の成長をどう表現するだろうか? と想像してみれば。  おそらく単純明快に”ひと月半で随分伸びたなぁ”と言うくらいだろう。
それを子供の視点で表現をするとこうなる。  ”田んぼに空が映らなくなった”と。
ラヂオのインタビュー番組でそれを聞いた時には、子供の感性というか視点は実に素直で素晴らしものを持っているものだと感心した。何故ならば僕(ら大人)を逆さまに吊るしたとしても、絶対に出てくるべくもない表現なのだから。きっとこの景色も田植えの直後はポツポツと疎らな緑点の広がる水面に、碧い空と新芽を吹いたばかり栗の木が映っていたに違いない。

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栗の花が咲くころ・・・それは僕の地方では梅雨の真っ只中にあたる。
毎日しとしとと降り続く鬱陶しい雨。その晴れ間に湿気をたっぷりと含んだ風が運んでくるのはその花の匂い。それが好きだという人にはいまだ出会った事はないし、僕もあまり好きではないので、つい臭いという文字で表現してしまうのだけど。その花のパスワードでだけ、捲る事ができる記憶のページがある。それはだいぶを通り越して大昔、小学校時代の初恋の事だった。
どこのクラスにも一人はいたマドンナ的存在の女の子。なかでも席替えや班の抽選がある日などは、男子はみな朝から気もそぞろに授業に臨んでいたものだった。そんな中僕は比較的冷静だった気がする。何故ならば好きな子はものすごく成績優秀だけど、競争率がそんなに高くない極々目立たない子だったから。今になって考えれば確率の問題なのであまり関係なかったのだけど、マドンナにあまり興味のない人に神様は微笑む事が多いのかもしれない。並んでとなりまではなかったけれど、通路を挟んで隣だったり、同じ班が当たったりするものだ。そして肝心の一番隣になりたい子といえばいつも、嗚呼・・・遥か38万キロの彼方から眺めるちっちゃな月の微笑みなのだった。

いつか記事に記したのだけど、当時は天文学者になってみたいというのがあって、暇を見つけては図書室で関連図書を読み漁っていた。
でもそれは純粋に勉学の為という理由だけではなかったような気がする。何故ならば約50%の確率でその子も図書室にいたのだから。当時よくあった、誰がだれに気があるとかないとか言う噂話。気があるとか、ないとかの言葉すら、現在はもう懐かしい死語なのだけど、僕とその子が噂舞台に上がった事がある。きっかけはやはり図書室での目撃談だったらしい。

しばらくしてその子から呼び出しを受けた。
そこで告げられたのは、あとひと月もない夏休みに父親の仕事の都合で北海道へ転校するという事だった。その時に渡された新しい住所が書かれた便箋。あれから一度だけ返事があったけれどその後は私書箱のフラグは立つ事はなかった。そんな事もいつしか忘れてしまっていたけれど、あの待ち合わせの広場には白い花をたわわに咲かせていたこの木があって、その印象だけがずっと心に残っていた。

***

こういった噂はそれが本心の人間にとっては嬉しいものだけど、そうでもない人にとっては迷惑千万なのだということ。
その白い花が栗の花だったということ。
成績がとても優秀で何に対してもきちんとしているその子の事を、一言で表現できる”聡明”という言葉 などなどを知ったのは、それから少しばかり大人になってからの事だった・・・。

 
  
  
   
あれから40年ほどの長い年月が流れたけれど、相変わらず人の気持を推し量るのが苦手なのは変わっていない。やはりこれは個性というか性格的な問題なのだろう。
   
   

   

  



Unforgettable 
Nat King Cole  & Natalie Cole 
**  
 ** 
   
   
現在のデジタル技術の賜物。
  
 
  
まるで二人同時に singer として存在していたかのように
父と娘の夢のデュエットが実現されている。
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一般の人には単なるフェイクでも
ファンにとってはまさに垂涎のナンバーであることは間違いない。

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