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2016年9月 8日 (木)

明治のかをり

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この瀟洒な洋館は湖畔沿いの国道から、つづら折りの細い坂を辿った森の中に建っていた。
運転免許を手にした若き頃からすでに数十回はこの湖を訪れているし、この建物の存在もだいぶ昔から知っていた。なのに今までこの門をくぐる事がなかったのは、いったい何故なのだろうと二階の御居間から庭を眺めながら考えてみた。
どうやらその答えは自分の移動ルート選択上のクセに起因しているようだった。僕は元来往路と復路は同じ道を通るのは好きではないし、この湖岸の外周道路も交通量が多い国道よりも、水際を渡る風をより近くに感じられる一般県道を選んでいた。北にある僕の街からこの湖面に来るには南下の後に東ルートと、西ルートの選択があって数十キロにおよぶ湖畔外周路にはこのどちらにも属さない、数キロに渡るこの空白路が存在していた。

 

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この館の主は今から100年以上も前の明治時代の皇族で、いまから34年前に重文に指定されたものだ。
建物が建築された理由は僕も非常に同感するところで、なんでも東北地方の旅行中この地に立ち寄った殿下がこの風光の美しさに魅了されて、この別邸を設けたと記されていた。
誰が設計に関わったのかは知る由もないけれど、標高500mを超えるこの寒冷地に当時日本でもあまりポピュラーではなかった、マントルピースを選択したのは素晴らし発想だ。洋間はマントルピースの存在ひとつでガラリと表情を変えることをもちろん彼は知っていたのだろう。また廊下や階段の踊り場までそれは設置されていて、この地の寒さに対する客人への十分なもてなしだったこともうかがえる。
天井やシャンデリア、またマントルピースにも花や植物などがモチーフされており、当時のゴルフクラブやビリヤード台の装飾を見ても、これはヨーロッパ留学の時にきっと本場のアール・デコに触れてきた、殿下目利きの品に違いないと思ってしまった。
そんな中でご婦人同行ならば是非にという気の利いたサービスがあった。
一つは明治時代のドレスの試着、もう一つは上の食堂で楽しむ季節の紅茶とスィーツだ。
どちらも試した訳ではないけれど、明治のかをりを堪能するという意味ではきっと良い思い出になることだろう。

 

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人もこの建物のように齢を重ねてくると”忘れられないもの”が何かと増えてくる。
それらを大別すると一つは身近で常に何かしらの意識があるもので、例えばクローゼットの中でいつも目に付く古着のようなもの。そしてもう一つは物置の中に忘れ去られたように埋もれている大きなトランクのようなもの。そこには全部の中身すら言い当てられないような雑多なものがぎゅうぎゅうにつまっている。
齢を重ねると言っても僕はまだこの館の半分程度の若造だけど、普段の煩雑な日常生活の中ではそんなトランクの存在すら忘れているのに、何かの拍子に心にある事が浮かんだりきっとそれに近い連想があった時には、パンドラの箱のようなものではないので時折ふたを開けてみたりする事がある。
その中からゴソゴソと出てくるのはぶ厚い束になった古い記憶の数々なのだ。
一つの束は忘れられない音楽であったり、また別の束は映画の1シーンだったりするし、そのまたとなりの束は僕自身にとっての忘れられない人々だったりする。
音楽や映画はネットが当たり前となった現代では、もう一度再会したいと思えばかなり容易に実現できるのに比べると、”人”という場合にはそうは簡単にはいかない。なぜならばその束に入っている人たちの大部分はもうこの世に存在していなかったり、たとえ何処かで元気にしていても、様々な仕事関係や交友関係も途絶えてしまって、もうたぶん会う事はないだろうと思われる人たちだった。

 

***

 

そのなかでも一番ボリュームがあって大切なものは、自分で目にした”風景(光景・シーン)”という記憶の束だ。
それはブログのようにカテゴリ別には分類されている訳ではなくて、5~10年区切りの大まかな年代とそれとは別に様々な印象を記したタグが付いている。それは外部からの検索にヒットする心配ないので、僕しか知り得ないその時の感情などを憚らないで織り込んだ結構大胆なものだったりする。
 
 
 
館で見上げた、いつの間にか高さを増した空をトンボが横切り
中庭からは虫の声
街に戻ればいつの間にかコンビニに並ぶおでん。
 
もうすぐウヰスキー片手にその倉庫を彷徨いたくなる季節がまたやってくる。

 

 
先週、知人がノラ・ジョーンズの”Don't Know Why”のアドレスを送ってくれた。
ここ3ヵ月程はいろいろと用事が重なって、ゆっくりと音楽を聴きながら流れる風景を愉しむ余裕のなかった僕の心に、それはゆっくりと浸み込んでくる歌声だった。幸い相棒に積んであるSDカードにはカノジョのアルバムが2枚が入っていて、久しぶりの青い空の下125哩の散歩は実に楽しいものだった。
 

1stアルバム”Come Away With Me”より
Feelin' the same way
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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