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2016年9月21日 (水)

秋分の候に思ふこと

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日々の最高気温がこのぐらいになってくると急に長袖が恋しくなったりする。
いつも思うのだけど春分に比べると、この秋分のあたりは季節が急激に移り変わるような感覚がある。つい先日まであんなにぎわっていた甘味処の軒下に吊るされた四角い旗。北斎が描いたような海に浮かぶ赤い氷の文字と、昔の鰹節に描かれていたような二羽の小鳥たち。なんとも不思議なこのサインも置き去りにされてしまった夏の道具のようで、なんとなく寂しさを感じてしまう。
僕にはこの時期なると一度はやってみたくなる子供の習癖のようなものがある。
それは薄手のセーターを素肌に着て過ごすこと。まだ皮膚はあの纏わりつく付くような暑さの記憶を鮮明に覚えているから、季節の交差点を過ぎつつあることをより感じる事が出来る区切りのような気がしている。

 

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この温度計はだいぶ昔に家具量販店で手に入れたもの。
上に浮かんだ一番下のタグに記された数字を以て気温とするという、いわばデジタルの温度計とも言えるもの。なぜこんな物が気に入ってしまったのかと言えば、自身の性格というか性質に起因しているのだろう。
僕は以前、S・E(システムエンジニア)を生業としていた時期があった。勤務先は小さなソフトウエアの開発会社だったから当然プログラマも兼任しなければならなくて、クライアントとの打ち合わせ以外はほとんどが昼夜逆転のデジタルの世界に身を置いていた。そんな生活が普通に出来るぐらいだから、基本的にそんな特質が自分あったに違いない。曖昧さというか、式(コード)で表せないものが全く存在しない、0か1のその世界はとても居心地の良いものだった。そして時間が経つにつれて僕は自分の周囲の世界をもデジタル的に見るようになって行った。けれど人の気持や心などは当然だけど式で表せるものでもないし、いつもキーボードから打ち込んでいるTRUE(0)やFALSE(1)で片づけられる訳もなく、その頃からひどく窮屈さを感じるようになっていた。そんな事に嫌気がさしてデジタルの世界に別れを告げたのだけど、その後何年か続く後遺症の中でこの温度計を見かけたのだった。
きっと温度的な偶然だったのだろうけど、それは沈む訳ではなく浮き上がるでもない、中間で止まっている実に愛嬌があり、理想的なデジタルの姿に思えたものだ。
 
僕は今でもデジタル時計から数字を読んでも、アナログ時計の針を思い浮かべるヘンな癖がある。それは現在時刻というよりも、針の大まかな角度から経過時間や残り時間をパッとイメージするのに実に都合が良い。

 

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セプテンバーソング(シナトラ・ヴァージョン)

メロディーラインが秋らしくて、ずっと昔から好きだった曲
人の人生を12ヶ月に喩えた愛の曲なのだと知ったのも
この頃の事だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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