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2016年7月の記事

2016年7月31日 (日)

讃酒歌

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さんしゅか。これは昨年読んだ阿川氏のエッセイの項目で、あまりにも面白かったのでそのまま借用してしまった。
alcoholというものは普通のヒトが生きてゆくのに必要不可欠なものではないので、嗜好品という範疇に分類されるものだろう。通常の必須栄養素とは46種類だと言われているけれど、僕の場合それにもうひとつ付加されて47種類という事になるようだ。

間もなく午後五時を迎える頃合・・・
自分の一生を一日の時間に換算してしまえば、今頃はきっとこんな時間帯なのだろう。これだけ酒との時間を過ごしてみて最近思うのは、以前のような量が呑めなくなってきた事だ。とりわけ若い頃などはアルコールが入っていれば酒類は問わずで、量を競い合うように味も気にしないで呑んでいた。というよりも大脳皮質がアルコールのよってマヒするあの感覚を楽しんでいたのかもしれない。ところが近年とくに正午を回ったあたりから急に酒の味(風味)に敏感になってきた。そんな中いろいろと試しながらディープにハマってしまったのがウヰスキー(アイラ系・シングルモルト)とビール(昔ながらの上面発酵)、それに白ワイン(シャルドネ系・辛口)だ。最近の呑み方としては最初の一杯をそれら少し上等なヴァージョンでゆったりと愉しみ、二杯目からは普段飲みのものに切り替えるようにしている。二杯目最初のその一口を凌げば、以後の風味のギャップはアルコールの廻った大脳新皮質が処理してくれるからやはりありがたいものだ。

 

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五時間飛んだ話がそこから更に八時間飛んで、あれは確か父親の七回忌の法要での事だった。
法要そのものに関する事は何も覚えていないのだけど、そのあと直会での事は鮮明に覚えている。それはテーブルで隣に座った
伯父のTokuさん が、まだ紅顔の少年だった僕にコップ半分程のビールを飲ませてくれた事だった。薄飴色で白い泡の浮いているその冷たい飲み物を口に含んだ時に僕は、こんなにも美味しいものが世の中にあったのかと感嘆した。いつも飲んでいるジュースや牛乳とは全くちがうその不思議な味に、未知の”オトナの世界”への誘惑というか、早く大人になってこんな旨い物を好きなだけ飲んでみたいという酒に対する憧憬が生まれた。瓶のラベルにはいわゆる創造上動物が描かれていて、あの縞馬ともつかず、ライオンでもないような動物に子供心にこれこそが、未知の大人の世界なのだと感じたものだ。
そして僕の長い酒歴がここから始まったのはまちがいない。

 

 

 

alcoholは人類最大の敵だろう。
けれど聖書は
『汝の敵を愛せ』と説いている。
フランク・シナトラ       -

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年7月15日 (金)

海の日間近 に想ふこと

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僕は内陸(盆地)に住んでいるからときどき海を見たいという衝動に駆られてしまう。
その衝動は最近ご無沙汰していた人に会いたいという気持ちにも似ているし、懐かしい場所に帰りたいというものにも近い。日常の生活でそんな事をいつも思っているわけではないけれど、時折フッと胸をかすめるそんな感情はちょうど満ち潮が遠くからゆっくりと時間をかけて海岸を満たすように心の中に蓄積されてゆく。

 

それがここ最近は夢にまで出てくるようになっていた。
例年ならば前半の半年で3回は出かけているのに、今年は一度も海と会っていない。いや待てよ、よくよく考えてみると次男から行きたいと言われた加茂水族館を目指し、4月に海岸沿いの国道を駆け抜けていたことを思いだした。あの時は天気も悪くクルマを停めて海岸に下りる事もなかったから、海に関する記憶-2016からきれいに抜け落ちていたのかも知れない。昨年秋の琵琶湖や柿田川でも書いたけれど、海はもちろん大きな湖や河に出会うとその水に触れてみたいという悪癖があり、同行者が居る時などは結構くやしい思いもしたりする。
僕にとって”海に行った”という事は、潮風に体を晒しながら砂浜を歩いてみたり、海水に触れたり、時には味見をして46億年という悠久時間の中で太古の海へと思いを馳せてみるという事なのかも知れない。海水浴やサーフィンは若い人達に任せるとして、寒い季節でなければ素足で海に入ってみるというのも僕にとっては楽しい遊び。波打ち際に立って波が引いてゆくときのあの倒れそうな、浮かびそうな不思議な足裏の感覚は僕にとっては幾つになっても楽しいものらしい。
そんな訳で僕の海への欲求不満は日々高まるばかりなのだけど、肝心の海の日も他の用事でもう2ヶ月前からロックされている。予定表を見る限り海との再会が叶うのは人影もまばらになった8月末の初秋の海のようだ。

 

 

この星を地球と呼ぶには 相応しくない
どうみても海球なのは明らかなのに
アーサー・チャールズ・クラーク       -

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年7月 1日 (金)

オトコの料理とスパイスのこと

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食味風々録(しょくみぶうぶうろく)。
ラヂオでこの本の存在を知ったのは、著者である阿川弘之が他界して間もない昨年初冬の事だった。話の内容から食べる事が好きな僕はその日のうちに甘損に註文した。これは読売文学賞を受賞した食をテーマとしたエッセイで、世の中のいろいろな事に腹をたてて、ぶうぶう文句を言っている自分がおかしいと、氏自ら名づけた題名なのだ。ビフテキとカツレツ・寿司・鰻などなど楽しみながら読んでいるうちに、その食べ物の歴史的背景までも知る事ができる。また巻末には娘である阿川佐和子との対談も載っていて食いしん坊にとっては読み応えのあるものだった。

 

 

その中で唯一の調味料であり、暫く振りに目にした文字が味の素だった。
氏はその章をこんな書き出しで始めている。昭和天皇の料理番だった秋山徳蔵という人の本には、大抵の食べ物は手づかみで食べた方が美味しいと書いてあり、その理由を考えた中に手のひらから味の素的放射能でも出ているのだろうかとあったらしい。氏はそれを読んで化学調味料の効き目を認めるような書き方がしてあり、著者は昭和天皇に時々、味の素を振りかけた料理を差し上げていたのだろうかと思ったらしい。氏は少年時代からの記憶が分かちがたく結びついている味の素肯定派であり、もしも著者に『実はちょいちょい使っていましたよ』と聞かされれば、秋山徳蔵やそれを美味しく召し上がった陛下にも親しみを覚えただろうという辺りは、思わず読む者をニヤリとさせる氏のユーモアなのだろう。
あの懐かしい赤い角丸長方形の缶と、白い割烹着のご婦人が瓶を持っている姿を知っている肯定派。
豊かな暮らしの中で段々味覚が敏感になってきた否定派と、グルタミン酸ナトリウムの味すら知らない若い世代にと概ね三つ程に分かれるのだろう。そんな事を考えているとフト疑問に浮かんだのは、いまでも味の素って売っているのだろうか?という事だった。さっそくスーパで再会を果たすと成り行きで一本連れて帰って来てしまった。テーブルにあった漬物に慎重にパラパラッとふりかけてみると、あの懐かしい白く細長い結晶とその味は僕にとってまさにノスタルジーの世界そのものだった。
氏の話の中であるジャンルの調味料として欠かせないものだと書いてあった。業務用の大量パック食材を扱う倉庫で、3~4㎏の大袋が山のように積んであるのを見つけたのはそれから間もない頃だった。

 

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食べる是即ち生きることなり。
これは僕の座右の銘まではいかなくてもいつも頭の片隅にあること。誰だって体に良いものを美味しく食べようと日ごろから思っているに違いない。その中で時々料理などもしてみる僕の考える事は、どうすればもっと美味しくなるかと言う事。レシピを見ながらさらに自分なりのアレンジを加え、材料品目も代用とか削減、妥協などはとんでもない話なのだ。
どうやらこの辺が道楽と言われる所以であり、コスト面や調理時間などで毎日料理を作っているご婦人方には敵う訳もないのは知っている。
家の台所には専用の引きだしがあって、中には誰にも触らせない大出刃・小出刃・柳の3本の僕専用の包丁と、ほんの1~2度しか使っていないスパイスが10種類ほど(これは先日ほとんど処分した)。それから産地が異なる岩塩が数種類。そこに赤い帽子をかぶった味の素がスパイスの一員として仲間入りした。それは氏が愛読していた古典的な家庭料理本の文章が引用されていたからだった。
”丁寧にとった出汁を使えば化学調味料は必要ないから、自分の本に味の素は殆ど出てこないけれど、それでは化学調味料は全く無意味なものかと言えばそうではなくて、例えば酢のものを拵える時に・・・・・”
”何かの具合で妙に物足りない味が出来てしまった時に用いるには便利な代物です。ただ注意しなければならぬのは最初から化学調味を計算にいれた調味は避けたいという事です”
    
そして氏はこの章をこんな意見で括っている。
”これは味の素是々非々の議論のうち最も中庸をえた良心的な意見ではないだろうか”と。
   
まぁ、それは良いにしても作るのは楽しいのだけれど、その後の後片付けはいまだに気が重い。

 

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このキッチンの主は知人の奥方。
テーブルでビールをご馳走になりながらこの景色を見ていると、いつも手際の良さにビックリしてしまう。単なる食材が魔法のようにカットされ、或いはボイルされ、またソテーされたりしてどんどん料理に変身していってしまう。ほどなく料理が出来あがり、奥方の薔薇に関するマニアックな話とそれをホームセンター通いでちゃんと支える知人の話。
それはそれは僕にとって梅雨のひととき楽しいランチの時間なのだ。

 

料理は芸術であり かつ高尚な化学である
 
ロバート・バートン       -

 

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