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2013年9月24日 (火)

9月のエイプリルフール (母と子)

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気がつくと僕は鰯となって群れの中を泳いでいた。
前世は確か人間だったような・・・とボンヤリ考えていると、群れがいきなり向きを反転したりして慌てて方向を修正する。水中では地球の重力を殆ど感じる事はなく、上下左右へとわりと簡単に向きが変えられるようだ。

この水槽の中に棲んでどれくらいの時間が経つのだろうか。
群れでの回遊という楽しさも最近分かってきたのだけれど、幸か不幸かここには僕らの天敵は存在しない。そんな中で仲間と毎日楽しく泳ぎ続けながら平穏な日々が過ぎてゆく。

  
毎日水槽の周囲には人間族が僕らに観察される為にぞくぞくとやってくる。
ただその中で僕らには理解が難しい関係がある。彼らの言う「家族」とか「夫婦」というものだった。魚類の中、いや動物全般を見ても死ぬまで親子や夫婦というその関係が続く事は、あり得ないことなのだ。つまり繁殖という目的を果たせば、あとはただの同族となるだけというのが一般的なのだ。(正確には極々少数だが動物にも、夫婦のようなものは存在する)

人間族が僕らを見てなにやら話しているように、僕らもいろいろと話しながら泳いでいた。
そういえば仲間に聞いた人間族のしきたりのようなこと。例えば今日やって来たひと組のペアがいたとしよう。そしてその二人は来月も訪れると想定しよう。その間に彼らはある儀式も含めて公的な書類手続きを行うと、今度は夫婦というように呼び名が変わるらしいのだ。僕らは常に高速で泳いでいて違いはあまり良くわからないのだけど、目のいいシイラの話では事後は2匹で揃いの指輪がついているので判るそうである。でも最近はそれが判断基準ではなくなってきている、とシマダイが横槍を入れる。仲間にも大きくなると名前が変わるのがいるけれど、それとはだいぶ様子が違う。

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特に休日などはちっちゃな子供を連れた若い夫婦が多い。
母親はいつも子供に注意を配り、僕らをより近く見せようと抱っこしたりする。そんな光景をいつも見ていて、母親が子供にいだく感覚とは何だろうと考えてみるけれど、いまひとつ良くわからない。母親にとって子供は自分の胎内から生まれてきた、文字どおり分身なのだろう。
だから愛情などと呼ぶよりも、もっともっと動物的で生々しい繋がりというのか、所有感というのかそんなものじゃないのかなと僕は推測してしまう。
以前ラヂオである女性の話を聞いた事を思い出した。なんでも彼女は自分の赤ん坊を見ていたら、どうしようもなく可愛くて、可愛くて、裸のお尻を思わず噛んでしまったという話だった。その切実な表現の中に、母親というものの本性を垣間見たような気がした。

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いぜん記事に記した通り、特に男の子は母親に関しては特別な感情があるようだ。
そんな母親が抱くわが子への感覚は僕にとっては永遠の謎にしても、子供が母親に抱く感情は良くわかるのだ。なぜならば信じてもらえないかもしれないけれど、僕にだってそんな子供の時期があったのだから。
幼い子にとって母親は全てなのだろう。
母に抱かれ、母の匂いに包まれている場所ほど、倖せで安全な場所は他にはないのだから。ときどき父親と言う名の生き物が辺りをウロウロするけれど、あれはいったい誰なのか・・・長い間知らないままに母の胸の中で育ってゆく。


  

魚の目に水見えず 人の目に空見えず

  
   
よく空気のような存在と表現する事がある。僕らにとってもふだん水は意識などしないのだけれど、生活の場であり生きてゆく上では絶対に不可欠なもの。これを拡大解釈するまでもなく素直に、かくも親とは実にありがたいものだ。



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