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2013年1月 4日 (金)

心の禊 ということ

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初詣に出かけるなんてほんとうに何年ぶりだろうか。
この時期にしてみれば穏やかな気温に誘われて、それは正月気分の真っただ中の二日にフラっと立ち寄った神社だった。参道の途中にある手水舎で何気なく柄杓を手にとって迷ってしまった。確か口をすすぐのは一番最後の筈だけど、はたして右手が先か左手だったかなぁ~と。
やはりこんな最低限の作法でもあまりブランクが空くのは良くないようだ。

僕は神社仏閣を参拝(お参り)したときの願い事は、まずしたことがない。
日ごろから願い事がないわけではないのだけど、願ってしまえば長くなる(たくさんある)からだった。願い事は参拝の最後の一礼の時に手短にお願いしなければならないらしい。ではなぜ参拝するのかと聞かれれば、神仏の御前だという厳粛な雰囲気の中ほんの短い間だけど、日ごろの雑念に追われている僕自身の心の中を、完全に無に出来る感覚が好きなのだ。
   

***

帰りに参道から手水舎を眺めて気がついた。
それは浄水を湛えた石臼に刻まれた”心洗”の文字と上に掲げてある”心浄”という文字だった。そういえば昔は禊や精進潔斎をして参拝したという話を聞いたことがある。現在ではなかなか難しい事なので、せめてここで”心の禊”をして参拝するという事なのだろう。
僕は人間観察も面白いかなと思って、しばらくここで手を洗う人を眺めていた。
それで思った事は、文字にしてみれば容易いのだけど、それがちゃんとできてるかは本人にしか分からないし、さっきの自分はどうだったのかと訊かれても、僕はまともに答えられない。けれど何人か眺めているうちになんとなく判るようになってきた。それは主に年配の人に多いのだけど、手水舎に向かう時と参道に戻ってくるときとでは、明らかに顔つきが違っている人達がいる事だった。

そんな光景を眺めているうちに僕は突然、神の滴礼(キリスト教的には)を受ける破目となった。気温が高いせいでベチャベチャのシャーベット状になった両手いっぱいの雪が、頭から首筋にかけて舞い降りてきた。瞬間を目撃した手水舎から出てくる若いカップルもびっくりしていたけれど現実、もう笑うしかなくて3人でのめでたい初笑いとなった。

頭と首筋の冷たさで顔つきが変わり、再び手水舎から出てきた僕。
今度は参拝最後の一礼の時にちゃんと神様へ、手短に願い事をしてきたのは言うまでもない。

  
  
  
  
  
  
  

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