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2013年1月20日 (日)

そらへの想ひ (2/2)

130102
(1/2)から少しだけ季節がすすんだそら。
日本海側では一年中でもっとも空気清澄度の高い季節の真っただ中。このぬけるような blue_sky が好きだ。これは僕の大好きな景色の一つで、春と秋の2回は天気が良ければ何かの帰りに託けて、いつの間にか鉄の馬の手綱が向く場所だ。この二つのそらを眺めるといつも心に浮かぶ一言があった。
それは周囲の人たちから、ポジティブな性格だと言われる事が少なくない事だった。それはあくまでもその人から見た主観的な表面づらの事であって、根はきっとすごくネガティブな人間なんだろうなぁ~、と僕自身では思っている。なぜならば会社員時代の経験からだけどネガティブな感情を押さえ込むと、ポジティブな感情も沈みこんでゆくという思いも何度かしているし、ポジティブな感情を必要とするときは、必ず直前には己がふかい深い、ネガティブな淵の底に横たわっていた時だったから。たぶん世の中には根っからの、天然ポジティブ人間などはきっと存在しないと思う。なぜならば、あらゆることが(不幸も含めて)素晴らしいだとか、何があっても笑っていられる事自体、おかしなこと(人)だと僕は思っているからかも知れない。
こんな事を書いていると若い頃飲みながら議論した、焼き鳥屋のオヤジの話を思い出す。
彼は”ポジティブ=カラ元気”と言っていたというより、断言に近かった。当時若気の至りで僕はそんなことは絶対にあり得ないと反論したが、僕が当時の彼の年代に近づいた時、それも強ち間違いではない”case”だという事が解ってきたものだ。

***

一昨年の秋ごろからだろうか・・・・・大好きな青ぞらの好みが変わってきていた。
その理由は自分でもまだはっきりとは判らない。以前は雲ひとつない無垢の青空がたまらなく好きだったけれど、いつからかそんな青空を眺めていると、掴みどころのない一種の淋しさみたいな感覚を覚えるようになっていた。いつか記した、”魚の目に水見えず 人の目に空見えず” という言葉が沁み込んできたのは、確かその頃だったような記憶がある。
快晴のそらはただただ蒼く清々しいだけで、それがとてつもなく遠いのか、それとも意外と近いのか、そこまでの距離感が全く掴めないことに、気がついたからかも知れない。それからの僕が一番知りたかったのは、きっとそらに対する”距離感”なのかも知れないと思っている。いまでは青空の中に適度に雲が浮かんでいた方が、今の僕にとってはちょうど良いのだ。
この湖岸にある”凪のそら”と”さざめく空”を仕切る砂の山は、いつも場所や形が変わっている。それは湖面を吹き抜ける風のココロなのだろうし、ある時にはその砂山自体がなくなってしまっている時もあった。それこそ気持ち中のポジティブと、ネガティブの境界線のような気がしてならない。

あと100回程も夢を見ると、またこの景色に逢いたくてたまらなくなる季節がやってくる。
この冬の厳しい北西からの季節風は、今年どんな砂山を見せてくれるのだろうか・・・・・

  

< 風のくちづけ 陳敏 >

  
  
  
  
  
  

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