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2012年9月 8日 (土)

午後の教会 (北の街へ 1/3 ) 

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僕はクリスチャンではないのだけれど、教会という所は好きな場所の一つだ。
教会に関わらず神社仏閣などは、常に時間があればのぞいてみたい場所にリストされている。さりとて僕は何らかの宗教を信仰しているという訳ではないし、それじゃ無神論者かと言えばそんなにも極端な事ではないようだ。それが証拠に僕の家にはちゃんと仏壇があって、父親も含めて先祖の写真も飾ってある。毎日ではないけれども線香を灯したら、鐘と木魚を適宜に鳴らしてちゃんとお参りをしたりする。だけどもそれは、正直に告白すると盆と正月の年二回だけの事なのだけど。それに四半世紀近く前まで、仏教というものには宗派があることと、自分の家の宗派さえ知らなかったのだ。だから僕はさしずめ限りなく無宗教者に近い仏教徒といったところだろうか。
  

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そんないい加減な僕がそこを訪れた時にいつも注意を払うのは、建物の構造とか色彩だ。また礼拝や参拝に使う道具なども意味を理解して見るとさらに興味深いのだろう。それに経典や祝詞、讃美歌や聖典といったスピリットや、袈裟や祭服にいたるまでそれぞれが持つ意味や云われなどは分からなくても、想像もできないほど長い時間をかけて紡がれてきた、人間の精神を超えた存在が形となっているから(僕が軽々しく言えることではないのだけど)、どれにしても完成された、意味のある美しさがあるような気がしてならない。



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< 栞紐の記憶 >
山形県鶴岡市

  
  
この教会は書斎から鉄の馬で2時間と少し。
重文に指定されているけれど、普通にミサが行われていて日常的に誰でも自由に見学できる。となりの併設された幼稚園だろうか、子供たちの遊ぶ声が時折聞こえる。この静かな聖堂でボンヤリと佇む静かな時間の中で、ゆっくりと音もなく心の鎧が剥がれおちるようなこの感覚が好きだ。
教会や神社仏閣という場所はほぼ無宗教の僕にすら、そこに身を置くだけできっと神仏は誰の心にでも存在するのかも知れないという、気持ちにさせてくれる不思議な場所だ。その神仏が僕に与え給もうたのは、意地を張る根拠すらも見失いそうになる、ゆったりと流れる時間だった。
  
  
  
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< 初秋の水辺 >
山形県鶴岡市

  
  
内陸育ちの僕はやはりここまで来ると潮の香りが恋しくて、卵から孵ったばかりのウミガメのように海岸線をめざす。平日の水辺はさすがに人影もまばらで、真夏とは明らかに光の強度を弱めた耀く海があった。
   
   
   

9月・・・
開放的でめくるめく行動の季節は過ぎ去り
これからは澄んだ空気の中で
人にとっての ”想う季節” の始まりである

 
< 善良なる管理人 >
 

< セプテンバー・ソング   ウィリー・ネルソン >

   
  
   
   
   
   
  

 

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