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2012年6月の記事

2012年6月30日 (土)

難読な漢字

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ここのところ月曜日というと雨が降るという、悪い習慣のついた僕の住む地方のそらだが、今週は久しぶりに晴れた。
やはり天気の良い休日は気分が清々しいものだ。普段よりも少し早起きしていつものルーチンワークをこなすと、てぎわ良くメールなどをチェックして、10時過ぎには鉄の馬の手綱を握っていた。

この日に向かったのは、ラヂオで”花咲かフェア”をやっていると言っていた、北に60㌔ほどのところにある総合公園だった。さすがフェアの最中だ。平日なのだけど駐車場にもちゃんと誘導をしてくれる係員の人がいて、あまり混んでいなかったけれどスムーズに駐車することができた。
初夏の強い日差しの中で僕は運よく、園内であずまやを見つけて腰をおろす。
梅雨の中休みとはよく言ったもので、たぶん湿度のせいだろうけれど真夏のような纏わりつくような暑さではなくて、ここのように日陰であれば実に爽やかだ。半そでの腕をすり抜ける気持のよい風の中、極彩色の花々を眺めながら僕はとある事を思い出していた。
それは先週あった会合の席で、休憩時間にあたまの体操と称して、難読漢字のプリントが配布されたことだった。それはクイズ形式になっていて、どう読むかを右側に記入するものだ。出席者の中でおそらく僕が一番の若いと思われる中、諸先輩方が歳の功でずいぶん正解されるのだと思っていたが、以外にもそうでもなかった。

僕がそんなことを思い出しているこの快適なあずまや。
漢字で書けば”四阿”と書くのだけれど、やはり正解の人は実にすくなかった。なぜならばこれは一般の人にはあまり(ほとんど)縁のない、専門用語みたいなもので、きっと公園(緑地)関係者と官公庁の人と建設業者ぐらいしか用のない漢字だからだ。
   

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博学のご諸兄が大勢いる中で、意外にも上位にくい込むことが出来たのは、きっとコンピュータのせいではないかと僕は思っていた。もちろん文章を書くときや、このログの記事を書くときにも使っている、日本語変換機能のことだけど。
それは意味のあるなしにかかわらず、しかも誤変換でろうと、該当する漢字を表示してくれる実に優れたソフトウェアだ。それを何度か見てるうちに、そのリストを自然に覚えてしまう。だからけっこう難読な漢字も読めてしまったりするのが結構ある。(ただしその意味を理解しているかは別の問題だけど)

そんな生活をずっと続けてきたおかげで、何とか読むだけは読めるのだが、僕にとっての問題は文字を自筆で書く時だ。
この歳になって、時より小学校で習うような単純な当用漢字すらも、噛んでしまうときがある。 ”あれっ! このさんずいの右側はなんだっけなぁ~” という具合である。一人の時は思い出す時間があるのでまだいいのだけど、人前で黒板なり、視線を感じながら書類に記入しなくてはならないときなど実に恥ずかしい思いをしてしまう。

地名なども実にバラエティーに富んだ読み方(読ませ方)をするものも多く、素直に地元の人に訊くのが一番のようだ。この頃の道路標識もそんな声があるのか、漢字の下にローマ字読みが書かれるものも多くなった。そのローマ字と漢字を比較してたまにびっくりしてしまうのは、多分僕だけではないだろうけれど。

今回の難読漢字クイズでの横綱といえるのが ”湯湯婆” だった。
いい大人が30人近くそろって誰一人読めなかったし、間違いの回答すらなかった、いわゆる手も足も出ない状態だった。そういえば中華料理のメニューだとか言ってた人もいたけれど。




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< 嬋媛とした水面 >
山形県寒河江市

これは正解者がただお一人。 実にすばらしい!

伺えば、観光ガイドをされているご方との事だ。
その時これを”せんえん”と読む事を教わった。
きっとこの機会がなければ僕の一生難読漢字の、
カテゴリに入っていた字だった。
これは嬋媛の意味を僕なりに解釈しながら現像した絵

  

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僕の場合、最近ペンで文字を書く機会がずいぶん減ったと感じるし、計算にしても電卓やCALCソフトの普及で暗算をすることがめっきり少なくなった。人間に限らないことだろうけれど、脳の機能は使わなければ退化の一途をたどることはまちがいないらしい。それが証拠に計算にしてもそうだ。以前は5個くらい並んだ二桁の足し算はなんでもなかったのだけれど、最近(ここ10年程)はどうもいかんなぁ~と思うようになってきた。二つの単純な二桁程度の加減計算が深い思慮、または電卓の介助なしでは思うようにならなくなってきた。それはきっとサラリーマンを辞して、数字と触れ合う機会が激減したからなのだろうけれど。
インドの九九は30の段まであると、確かNHKのドキュメンタリーで見た記憶がある。それはものすごい暗算能力をすべての国民がもっている事になるのだけど。
その時に思い出したことは、二男の小学校時代の宿題だった。その時、彼は電卓を貸してくれと言ってきた。僕は憮然として”なぜ、算数の宿題に電卓が必要だ?”と問いただすと宿題のプリントを差し出された。なるほどそこには彼の言うとうり、一万以上の計算は電卓を使うようにと書いてある。けれどそれを見て僕はなんだか釈然としなかった。一万円札を出されて、お釣りを暗算で計算出来ない時代がもうすぐそこに来ているのかもしれない。


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< 嫋なレイアウト >
山形県寒河江市

   








  
  

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2012年6月23日 (土)

午前 8時59分60秒 という時刻

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あと一週間もすれば一日の時間が1秒だけ長い日がやってくる。
今回は3年半ぶりのことだ。そのわずかな時間が日々の生活の中で、大きなウエイトをしめているとかは、きっとないのだろうけれど。
天文学が好きな僕にとっては正確無比な原子時計と、地球の自転速度と差異を埋め合わせるする、このわずか1秒という時間の修正は、ちょうど何かの儀式のようなもので金環食や、金星の太陽面通過を待つ時の気持ちに似ている。

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このうるう秒というやつは、うるう年のように4年に一度と決まっていない。
6年間も実施される事のない時もあれば、5年連続で毎年という時もあった。それが混乱する理由だったのかは解らないけれども、今年の正月あたりから、廃止か存続かの是非をめぐっての記事を、新聞やWebで目にするようになっていた。理由はコンピュータが誤作動するおそれがあるからだ。ファイル(データ)は、作成や更新された時間のデータも必ず持っているので、そのデータのトランザクション処理などに起きるのだろう。PC上のファイルにしても、タイムスタンプは”分”までしか表示されることはないけれど、ちゃんと秒までのデータも持っているのだから。2012年7月1日AM-08:59:60という、予期しない時刻データをどう処理するかは、そのシステムの開発品質にかかっている。いまやコンピュータなしでは実現不可能な、株の売買やCDのオンラインシステムにおいて、この誤作動などの問題が起きれば、一体どんな事態になるかは誰でも想像に難くない。だからヨーロッパでは取引終了後の夕方、アメリカでは深夜、しかも日本とヨーロッパ圏は休日に実施されるのだろう。(ちなみに前回は元日だった)

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昔の記事に書いたように、僕は以前システム・エンジニアというか、プログラマを生業(なりわい)としていた時があった。
もう12年も前の事だから時効(僕なりに)だろうが、うるう年で大騒ぎしたいわゆる2000年問題もそうだった。いまや全世界で使われているグレゴリオ暦。4で割り切れる年(オリンピック年)は、うるう年と定義があるのだが、但し書きが二つあった。
”西暦年が4で割り切れる年はうるう年”  というきまりは誰もが知っている通りだけど、
但し書き1: ”西暦年が100で割り切れる年は平年” と  但し書き2: ”西暦年が400で割り切れる年はうるう年 ”というのがある。  もちろん一般の人は知らなくてもいいのだけど、プログラマが一番注意を払わなければならないのは、この但し書き2:の方だったのだ。
つまり西暦2000年は400年に一度の稀なるうるう年だった。
それこそ500年も前からコンピュータが使われていれば、こんな問題は起きなかったのだろうけれど、本格的に普及しだしたのは1980年代に入ってからだ。ましてや自分が開発したシステムが企業に納品されて、いったいそれが何年使われるのかなど、誰も考えなかったのが僕をも含めた当時の感覚のようだった気がする。

そしてかくなる2000年問題は業界に特需をもたらしたのだろう。
すべてのシステムのプログラム(ソース)を調べて検証し、もし但し書き2:がなければを書き加えるという作業だった。案の定おおかたのソースには誰でも知っている”年を4で割って余りが0の年はうるう年で、かつ100で割り切れれば平年”という記述しかなかった。僕も然り日付けを扱うルーチンに対し、先輩から聞いていたそれしか記述することはなかったのだけど。

当時コンピュータは企業においても神器扱いされていたので、そのプログラムを作る(検証・修正も含めて)作業はまさに神職のように見られていたのかもしれない。いま想えば一般の人にはワケの判らないものだったし、実際に見えないものなので会社側にしてみれば実に美味しい仕事だったに違いない。

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話はもとに戻るけど、今年はその増えた一秒を”公に”どう処理するのだろうというひそかな楽しみがある。
3年前のときはひかり電話の時報サービス117ではピ・ピ・ピ・ポーン、ポーンと時報を2回鳴らしたと聞いたし、通常のADSL回線の時報サービスでは直前の100秒を1/100ずつ遅らせる事によって合計で時刻を1秒遅らせるという、実に手の込んだ事をやったらしい。

それでも”午前8時59分60秒”を実際に見てみたいというご諸兄方には、やはり 日本標準時 意外にないのかも知れない。





  
   
    

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2012年6月17日 (日)

Toku さんのこと

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椅子とはおもしろい家具だ。
立ち通しなどでひどく疲れたりして、腰を下ろした時のあのほっとする安堵感。それを脳が記憶しているせいなのかは判らないけれども、そこにあるだけで(存在するだけで)たとえ坐ることがなくても、なんとなくリラックスした気分にさせてくれる。
しかしテーブルとなればそうはいかない。初めから何かを載せるように作られているから、小さな脚の高い花台であっても、上に何かしら載っていないと落ち着かないと言うか、感覚的な安定感がないような気がする。それに何が載っているかでだいぶ印象が違うものだ。
  

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徳さんは母親の兄で、父親の義兄、つまり僕にとっては伯父にあたる人だ。
現代では考えられない父方の7人兄妹の伯(叔)父夫妻。そして母方の徳さんも含めた3人兄妹の伯(叔)父夫妻の中で、一番僕との関わりの深かった人であり、そして僕がもっとも愛した伯父さんだった。

彼も隣町で僕の父親と同じ業種の会社を営んでいた、ライバルだったのかもしれない。昨年書いた記事で、僕の最初のBossと引き合わせてくれたのも徳さんだ。そして父親のいない高校生だった僕に、酒を飲むことや夜遊びをすることの大切さを、父親代わりの情熱をもって教えてくれた人だ。

子供の頃に遊びに行くと、協会とかの会合もなくて時間のある時は「Tada坊、乗れ!」とだけ言って、行き先も告げずに車を出発させる
((Tada坊とは僕のこと)) 
それはいつも、ワクワクするミステリー小旅行のようなものだった。行き先は見晴らしのいい峠だったり、あるいは山懐の温泉宿だったり、時には子供連れなど出入りしないようなすごい店での昼ごはんだったりした。

成人式の頃だっただろうか、徳さんの家でいとこも集まってみんなで飲んでいた時だ。もう大人なのだから、お互いちゃんと名前で呼ぶようにと、伯母に諭されたことがあった。二人ともトライはしてみたのだが、すごくぎこちない会話になったのを覚えている。その頃から徳さんとも会う機会が減ってしまって、そんな事もすっかり忘れていた。だから30代になっても僕らの呼び名は相変わらずの徳さんとTada坊だった。

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先週、絵の倉庫で探し物をしていた時に、ふとマウスが停まった。
それは現像されることもなく放置されていた絵のRAWデータだった。この場所は確か大正時代に建てられた洋風建築の建物で、ずいぶん昔に徳さんと母親と叔父さん達と訪れた場所だ。確か一昨年、近くを通りかかった時にその事を思いだして、再び立ち寄ってみた時のものだったが、もうその事じたいすっかり忘れていた。


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<  徳さんの椅子   *人のいないポートレート*  >
山形県鶴岡市
 

   
その時は齢いのせいか少し疲れていたのだろう、徳さんはこの紅いベルベットの椅子に腰を下ろすと、正面の展示物を遠目に眺めていたのを鮮明に覚えている。この椅子に腰をかけてから3年ほどの時間がながれ、ある秋の日に徳さんは眠るように空へと旅立ってしまった。

この絵のデータを現像しながら、この椅子に坐っていた徳さんの姿が僕には見えていた。いやこうして徳さんのいない光景を見ていると、逆にその人の存在が過去の記憶の中で強く増幅されて、浮かび上がってくるような気がする。視線をおもむろにこちらに向けると、ニコッと笑って「どれTada坊、飯にすっぺ」と語りかけているような。
言葉のない歌があるように、人のいない肖像画があってもいいと思う。








   

 

 

 

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2012年6月 8日 (金)

父の日 がある月

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この水あそびをする親子、じつは遥か昔の僕と父親だ。
さらに写真は語りかける。    「これは家の前でトラックに水をかけて遊んでいたdadと君の姿だ。 それは覚えているかい?」 ・・・ と。

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たぶん僕だけではないと思うけれど、とかく幼少期に関しては、はっきりとした記憶というものはあまり残っていない。それらしきものと言えば頼りのない断片的で、まるで映画のシーンをキャプチャーしたようなものが、微かに残っている程度なのだ。古い(すぎる)写真はいつもそうなのだけど、よく母親や伯母さん方と一緒に写っている、最初は見慣れぬ子供がいて。それが小さい頃の僕なのだとずっと説明されてきたおかげで、ようやくその事実(記憶)を  ”あぁ、そうだったのだ”  と認識することが出来るのだろう。

僕が小さい頃(6才)に父親をなくした事は、今までの記事の中で何度か書いたとおりなのだけどちょうど7年前、あの6月の事故以来いまの時期になると、思いをめぐらせるようになったのは父の日の事だ。(父の日といっても、息子らと僕の関係ではなくて、dadとの事)
今ごろになってそんな事を思うなんて、おかしいと思うのだけれど、水無月のかぜは不思議とそんな想いを運んでくる。それはたぶん、僕自身に父親が亡くなったという事実はあるのだが、記憶はないからなのだろう。

葬式の時でさえ、父親がいない事など気にも留めずに、なんだか判らないけれども大勢のお客さんが来て、すごくにぎやかだと思っていた。そしていろんな人から頭を撫ぜられたりして、お菓子やおもちゃをもらったことが、すごく嬉しかったのをよく覚えている。それからしばらくして物心がつく頃になってようやく父親がいないことに気付く。そんな子供時代だった。

だから写真の中にしか存在しない父の日とは、自分が体験することが出来なかった、特別な日だったのかもしれないし、いまとなっては一種の憧れのようなものだ。きっと男同士なので普段は、やれ家を出て行けだの、俺の方がが出て行くだのと、しょっちゅう喧嘩ばかりしてたに違いない。けれども父の日ともなれば、僕が敬意を表して八方あてを尽くして見つけてきた極上の酒を、大酒飲みの二人で酌み交わしていただろう。

あの 6月5日(日曜日)
単に偶然という言葉では片づけられない、一瞬の中で繋がった僕の命。
それからだった。これらの写真に懐かしさみたいなものをつい感じてしまって、いつも6月になると、引き出しの奥からこの写真をとり出して、アイラを片手に眺める習慣がついてしまったのは。
 

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< 父と子 Ⅱ >
山形県米沢市 (撮影者不詳)

  

右端の草むらで寝ころぶ父親の奥に写っている橋は、欄干部分だけが近代的なものに交換されただけで今も現存している。僕の家はちょうどこの橋の右手たもとすぐの所にあって、橋を左手側へ渡ると繁華街へと路が続いていた。

この静止した時間から、干支が一周するほど年月を早送りしてみよう。
たしか学校を卒業するころに行われた法事の席で、少しフライングだったけど親戚や、父親の仕事仲間と酒を飲みながらこんな話を聞いた。
”お前の親父は、毎日橋を渡らないで寝たためしがなかったものだった”・・・と。
それを聞いた僕は、微かに残る当時の母親とのやりとりや、当時自分で会社を営んでいた、少しヤクザな彼の背中の記憶を想い出して、なるほどと少しだけ納得した。皆が口を揃えていうのだから、それはきっと間違いない事実なのだろう。たぶん自分の中で、いずこかに眠っているその父親のDNAが、僕の呼吸が止む時まで覚醒しければいいなと密かに思っている自分がいた。

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数多い写真の中で、父親と写っている写真はあとにも先にも、この3枚だけだ。
そしていま僕は父親が他界した年齢よりも10年も長く生きている。
   
  

Danny Boy    <Andy Williams>

 
 

  
  
  
  

  
  

   


   

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