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2012年5月の記事

2012年5月30日 (水)

新緑と初夏の匂い

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5月も早いもので明日で終わり週末からは月が変わる。
あと半月もすればこの地方も梅雨入りを迎える時期だ。桜花も終わると人々の注意はほんのいっとき、鮮やかな新緑に向けられるようになる。そしてその初々しい緑いろの濃さが日々増してゆくのとは反比例して関心が薄れてゆく頃に、ようやく木々の花(ライラック・ハナミズキやニセアカシアなど)が咲き始める。次にこの葉が再び人々の関心を引くのは、それこそ秋分も過ぎぐっと辺りが秋めいてくる頃だろう。

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日本の四季は明確だから季節の移り変わりを表現するのに、日本語ならではのいろんな言い廻しが昔からある。明確なルールはないのだろうけど、これでけっこう気を使ったりしてしまうのだった。
例を挙げれば・・・夏のはしりとか冬のはしりとかはよく使うけれど、春のはしりとか秋のはしりとかはあまりいわない。春めくにしてもおなじように、秋めくとはいうけれど、夏めくとか冬めくとはあまり使わないといった具合に・・・・・
僕は個人的に"梅雨"という季節ではない気象現象に、"はしり"という言葉をくっつけて使う"梅雨のはしり"という表現が好きだ。それはちょうど梅雨という時期に入ったか、まだなのか、その微妙な境目で穀雨のようにしとしとと降る、穏やかでやわらかな雨が好きになったという他愛もない理由からだったりする。

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齢をとってくると”花鳥風月”に敏感になってくる・・・と最近何かの記事で読んで、はっとした。
そう言えば3年ほど前までは、二十四節季のわりとメジャーな六節季ぐらいをカレンダーで把握していれば、それで良かった(満足していた)。けれども最近は十八節季ほどをカレンダーで把握するようになっていた。この書斎のカレンダーも GEORGE MEIS と オードリー は外せない毎年の定番なのだが、二十四節季が記された大判のものが、毎日歯磨きをするこの流し台に必ずないとやはり落ち着かない。
日本人は特に季節に敏感な国民性からだろうか、それぞれの季節の冒頭に ”初” ・ ”真(夏と冬だけ)” ・ ”晩(春と秋だけ)” といった具合にさらに12季程に細分化される。さらにその中に二十四節季がはいってきたりして、季節を愛で風雅を愉しむというのもなかなか忙しいもののようだ。

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今ごろの気候は屋根のペンキ塗りに最適だと言われる。
昔に聞いた職人の話からはどうやら朝露がおりない事に起因しているらしい。だから気温のわりには湿度が低く、天気がよければ朝からカラッとした、清々しい空気の肌触りを感じる事ができるのだろう。晩春と真夏の間の初夏の匂いは、そんな涼しげで乾いた森の匂いに感じる。
それを僕なりに、且つもっとリアリティーに言うならば、世界5大ウヰスキーの一つである Japanese whiskey 。
そのシングルモルトのカテゴリである”白州”に例えることができる。もちろん万人向けでスタンダードなのは前回の記事で記した”山崎”なのだが、僕は今の時期のこの匂いの中で愉しむならば白州に軍配が上がるのだ。なぜならば彼は涼しげな印象が大きいのだけど、ミントのようにストレートではない、森の新緑の中に居るような冷涼感のフレーバーを持っている印象があるからかも知れない。

だれが言ったのか知らないけれど   ”シングルモルトは生まれた土地の風土を記憶する”  と。 
アイラにしても、山崎・白州にしても、まさにその通りだと思う。  特に大事な(むずかしい)仕事があって気持ちと体が張り詰めていたような日には、ゆっくりと好きな音楽とモルトに身を任せる。すると頭と体の緊張が少しづつほぐれてゆくような心地良さを感じさせてくれる。
モルトはこういったゆっくりと流れる時間を愉しませてくれるとっておきの酒だったりもする。シングルモルトははっきりした”個性”という奥深さをもった、実におもしろい飲み物だ。

  

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< 放たれた扉と初夏の空気 >
福島県福島市

 

もうすこし経つと前の河川敷でも梅雨の晴れ間となれば、気の早い若者達の花火の音が聞こえはじめる頃だ。
すっかり田植えが終わった田んぼには空や木々が映っていて、この季節限定の景色を眺めていると、時折吹く風にイタズラされたりするのだが。
もうだいぶ前の事になるけれど、子供達の無垢な感性にびっくりしたことがある。
普通は田植えが終わり、この蜃気楼のような風景はみるけれど、あとは色濃くなってゆく新緑のようにイネの成長にあまり注意を払わなくなってしまう。たとえ気が付いたとしてもお盆前の出穂の時期とか、冒頭のいちょう同様に稲穂が黄金色に染まる頃だろう。
そんななかで彼らはこの風景をちゃんと見ていてこう表現した、”田んぼに空が映らなくなってきた”と。



  
  
  
  
  
  
  
  

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2012年5月23日 (水)

はしご と言う名の飲み物

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新年度もスタートしてもう少しで2ヵ月が過ぎようとしている。
思い返してみれば、絵のフィルタリングに追いまくられていた年度末。新年度にはいればそれなりで、なんだかんだと諸会合が続いたりしていた。そんなわけでここ(書斎)でゆっくりと音楽と絵とalcに浮かぶ時間はあまりなかったような気がする。新緑も光をさえぎるほど色濃さをまして、ようやく自分のペースを真ん中において過ごせる季節がやってきたようだ。この地方でもこれから梅雨入りまでの、ほんの短い間の風の薫る季節へと、スイッチ出来たのかも知れない。

僕を良く知るご諸兄は意外かも知れないけど、実は外に出て知らない人と会うのは自分的にはあまり好き(得意)ではない。
それはきっと人間嫌いというほど極端なものではなく、社交嫌いというあたりのカテゴリに属する人間なのかなぁ、と最近よく思う。とは云ってもどうしても顔を出さないとまずい、大勢があつまる会席などもたまにある。そんな日は朝から、放課後にでも歯医者に連れて行かれる子供のような気分なのだ。いつもそんな時は会場に居ても自分の居場所がないような、居心地の悪さに付きまとわれて落ち着かなく、楽しむなんて事はとてもできない。だからあまり失礼にならない程度で早めに会場を後にし、お気に入りのバーでゆったりと寛ぐ事が多い。
ところが、気心の知れた仲間や知人と会うときは話がまるで違う。アルコールが入ればまるで子供のようにはしゃいで、自分でもびっくりするくらいに良くしゃべるし、時間の経つのも忘れて楽しんでいるようだ。

4月も末にさしかかる頃に、ある会合の知らせが舞い込んだ。
メンバーは5~6人の知っている人たちばかりだし、場所はといえば僕と同い年の知り合いがやっている割烹の名前を告げられた。そしてなによりも年配の人たちばかりなので、やっかいな二次会の心配もいらない。そこである計画が僕の心に浮かんだ。それは店から歩いて2分程にあるバーに、久しぶりに顔を出してみたいということだった。

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僕が特に目的もなく酒席(食席)に、コンデジを持参する事自体実に珍しいと言うか、かなり稀なことだ。  (だから今回の絵があるのだけど)
これから彼の店に行くのだという安堵感もあり、出がけにぱっと目についたので、何気にポケットに入れて連れてきていた。彼は料理人(職人)としては決して妥協は許さない性格で、それは友人などとプライベートにこの店を訪れた時、料理を運んでくれる細君(女将)の言葉の端々からも容易に推測できる。彼の味付けは全体的に極薄めだ。四季折々の素材の味を堪能させてくれる彼の料理は、器との美しさも同時に愉しめるものなのだ。

今回供されたふぐ皮の煮ごり。
2~3年前に食べた記憶があるのだけれど、あまり印象にないところをみると、たぶんその時はビール(これも彼こだわりのものだが)で食べたのかも知れない。その淡白だけれど奥に何か芯のあるダシと歯ごたえが、濃厚な吟醸酒と実に良く合う逸品だと今回初めて気が付いた僕は、残しそうな人と料理の交換トレードで三皿程確保した。知り合いだけの宴席では、好きなものを見つけると僕はこんな大人気ない食べ方をしたりする。

右下のお猪口と徳利は成島焼と呼ばれるこの地方の焼き物で、3年程前に彼がお客用にと窯元にオーダーして作ってもらったものだ。
なんといってもこのお猪口、左利きにとっては堪らない感覚をもっている。小さな窪みが1つあって、それを手前に持てば親指が、向こう側に持てば人差し指の腹がピタリとおさまり、吸いつくような感覚なのだ。これを初めて供された時に嵐山孝三郎ではないけれど、”こりゃぁいい!”と思わず呟いてしまった。後日彼に頼んで1セットを原価で譲ってもらって以来、いまも大切に愛用している。
   

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< セカンド・ステージ >
山形県米沢市・中央1丁目

   
ほどなくお開きとなった会合なのだが、今回のように二次会の追っ手を気にせず、フリーになれる時はなかなかありそうでないものだ。
このバーは人と来た(連れてきた)のはほんの数える程しかない。一般的にカウンターは、わりと真ん中あたりから埋まってゆくのだけれど、僕は奥から4番目のこの場所が好きでよく座る。何故かと言えば、マスターがカクテルを作る作業を目の前で見られるからだ。
オーダーが入ると、アイスピックで氷を割ることから始まる一連の作業は、流れるように美しく見あきることはない。

僕がいつも最初にオーダーするジンライム。
まず氷をいれてグラスを良く冷やすと、メジャーカップでジンを注ぎ、ライムを入れて再び氷をいれる。そしてバースプーンで一度だけかき混ぜたなら、別に用意しておいたライムの皮をグラス上空30㎝で軽く絞る。ミストのように広がる香り成分が落ち切ったところで、カウンターにのせられると、コースターを滑らせてあざやかに目の前にスッと差しだされる。相変わらず見事な手つきだ。
そしていつも定番のジンライムから僕は、はしごの一杯目をスタートさせた。
  

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一番ひだりの山崎は、蒸留所の限定樽出し原酒でアルコール度数が61%。

ラベルには<952/2000>のシリアルが打ってある。

とかく男という生き物は、季節限定とか○○限定とかのフレーズに弱い御婦人同様、○○/○○○というシリアル番号に意外と弱かったりする。やはり彼にはこのすっかり酔った僕では失礼なので、次の機会に最初の一杯目で対面することにしよう。  

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マスターにいろいろとカクテルの話を聞きながら、グラスを重ねていたらだいぶ時間も過ぎている事に気がつく。
誰かがソルティードックのオーダーをいれたので、ついでに僕も同じものをスノースタイルでとオーダーする。それに使う塩は雪のように細かい専用のものだと、いつか彼に聞いたのをボンヤリと想い出していた。
   
  

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< favorites >
山形県米沢市・中央1丁目
  
  
  スノースタイルのソルティドックを飲むと、いつも心の奥底からぽっかりと浮かんでくる、古いふるい物語があった。
 
 
  
   

ごく限られた地方に降った雪  わたせせいぞう

  
   

 

  

  

  

    

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2012年5月12日 (土)

Sakura の頃 (3/3)

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この記事の(1/3)を記してから日々の所用に追いまくられて、かれこれ2週間以上も経ってしまっていた。
そんな事をしているうちに、ソメイヨシノはもうとっくに散り、吉野桜も散り始め、頼みの八重桜さえ危ない時期に差しかかってきている。言い訳でもないけれど、これから見頃を迎えるSakuraだってある。本格的な山菜のシーズンを迎えて、深山に分け入ると突然満開の山桜に出くわしたりして、平地では見られない濃い真珠色の美しさにはっ!とする時がある。
   
先人いわく、
<よのなかに たえて櫻の なかりせば はるのこころは のどけからまし

これを読んでなるほどと妙に納得したものだ。
もしもこの日本にSakuraが存在しなければ、春の心象はもっと穏やかな(そわそわしない)ものだったのかも知れない。Sakuraがあるせい?で、いつ咲くのだろうと何度も眺めて気をもんだり。咲いたら咲いたでなるべく長く咲いていて欲しいと、こんどは天気を心配してしまう。これはやはり日本人としてのDNA(習慣?)を持っている証拠なのだろうし、これも一種の春の楽しみだなぁ、と僕は思っていたりするのだけれど。

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Sakuraが満開ともなれば、並木のある公園や堤防は、それ自体が膨らんで立体的に見える最高の時期を迎える。
それこそ春という季節の美しさを感じる時だ。木を見て森を見ず VS 森を見て木を見ず・・・・・・一般的には左辺が正解なのだろう。けれども僕は常々 case by case だろう? と思っている方なので、どちらが真理なのかは、その時々で変わることになる。ふだん(日常)はあまり気付く事がないかも知れないけれど、幹にも美しいSakuraが咲くことを知っている。だから満開のSakuraを見ると同時に僕は必ず幹を見つめる。

それはいつも何年か前に聞いた知人の話を思い出すからだった。
Sakuraの木にもちゃんと寿命があるらしく、それは人間と同じくらいだと言っていた。もちろん幾つかの好条件が重なれば、長寿の木(100歳以上)もずいぶんとあるらしいのだけれど。ただ言える事はある樹齢以上にならないと、幹から花が咲く事はないと言う事だった。彼はそれを解かりやすいように女性の美しさに例えて話してくれた。
10代とか20代、の木はいくら満開でも、ただ花を咲かせるだけなのだと。それが30代・40代・50代・60代と深みを増すにつれて、幹からたくさんの花が咲いてくるのだと教えてくれた。

確かに若い樹の満開とは華やかさだけとでも言うのだろうか。目の前に広がるなにか整然とした、且つ幾何学的な美しさだけなのかも知れない。それとは対称的に幹からまるで滲み出すように咲く花やその樹齢の樹には、艶やかさのようなものがあり一瞬のときめきのように咲き誇る。その内々に秘めた妖艶さにもSakuraの美学を感じてしまうのだった。

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花びらの背景が青空でも曇天でもなく、黒っぽい樹皮というのは淡いピンクが一層映えるように感じる。それは樹自身が直接素肌にブローチを身に付けたような美しさを感じるし、今までその樹がいくつもの厳しい季節にも耐えて生きてきた、ひとつの証にも見えるのだった。
つい最近の事だったけれど何年振りかで、とある知人に会う機会に恵まれた。僕はといえばすっかりご無沙汰して、すでに時の流れに呑みこまれた Pervious_friend の一人に過ぎないのだけれど、その人の厚意で僕が今まで一番苦手だった食べ物の真実を知ってしまった。
なんでも素晴らしいモノや食べ物との出会いは、それを育んできた場所や土地柄。それに創(作)った人にも興味が及ぶのは好奇心旺盛な僕だけかも知れないけれど。いつかそれが何であったのかと、どんな場所で育ったのかという記事をこのログのカテゴリに入れてみたいと思った。
僕よりかはずっと若い人なのだけれど僕の思った通り、まさにSakuraのような時間を重ねてきた素晴らしい人だ。これからすこしづつ、美しいブローチを纏ってゆくことだろう。
  
  

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< 花のいのちは短くて >
山形県高畠町

  
さくら吹雪はもちろん素敵なのだけれど風のない時に、はら、ハラ、と左右にふれながら自由落下する花びらもまた、僕のなかでは好きな景色のひとつだ。なぜならばそのタイミングは時節の風に左右される訳でもなく、神のみぞ知る時間なのだからかも知れないけれど。
そして花が散る時にはそこにはすでにちいさな新緑が芽生えていて、これからも続く季節を連想させてくれる・・・
そんな安心感がさらに見る人を酔わせるのではないだろうか。
  

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Greensleeves    (Henry/Anne)

   
傷跡にはそれが体の傷であれ、こころの傷であれ、
何かしらの美しさがある。
傷跡があるということは、
苦痛はすでに去り、傷口はふさがり、治癒したということなのだ。

< ハリー・クルーズ >
彼が今年3月29日に死去したことを
Webで知ったのは

つい先月の事だった・・・  
  
   

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< Crystal 越しの風景 Ⅱ/Ⅱ >
山形県米沢市

    
僕の住む地方は、関東以西では連休の花として知られるハナミズキがようやく開花し、遅い春の終わりを告げていた。
これからは冷たい飲み物が恋しい季節の訪れだ。






  
  
  
  
  
  

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2012年5月 5日 (土)

Sakura の頃 (2/3)

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この場所のSakuraを眺めることが大好きになったのは、もう6年ほど前の事になる。
ちょうど通りとここの間には杉を多量に含んだ雑木林があって、見通しのきく落葉の季節とはいえ、車はこの見事な桜に気付く事なく通り過ぎてゆく。その通りからその雑木林沿いに細いまがりくねった砂利道を100mほど進むと、きっと地元の人くらいしか知らない、この小さな児童公園がある。
ここに通じる道は農道と兼用のようになっていて、通りから入ってすぐの第一コーナーにはちょっとしたウェルカム・アトラクションがあったりするのだ。通り慣れた地元の人や僕は自転車だから気にならないのだけれど、よそ者ドライバーの腕が少しだけ試される、ちょうど自動車教習所のS字コースのようにW=1.7・R=1.9のといったかなりタイトなコースだ。

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今年のSakuraは昨年より遅くにほころび始めて、去年より早くパッと散ってしまった。
気象的な事情がいろいろあったようだけれど、ほんとに見ごろと言えたのはわずか2日程だった。きっと休日がこの時間に合わなかった人は、非常に残念な思いをしたことだろう。けれどもSakuraはこの地方にとんでもない天変地異でも起こらない限り、きっと来年も咲いてくれるので、あとは自分の休日に合うように祈るだけだ。
僕がここに向ったのは、諸々の雑用を済ませた午後3時を回った頃だっただろうか。
お気に入りの5オンスのスキットルにアイラを満たすと、書斎から4㌔程にあるこの場所に自転車で10分程かけてやってきた。
Sakuraの観かたは人それぞれあると思うけれど、出がけに玄関に転がっていた景品かなにかのレジャーシートをポケットにねじ込んできていた僕は、生まれて初めて(たぶん)幹の根元に寝そべって地面からの視線で花を眺めていた。
落陽に向って青い背景の比率が少しづつ増してゆくのを感じながら、昨年のおなじ季節の事を思い出していた。それは花の下で3冊の本を読んだことだった。その中の一冊にJ.TanizakiのInei_raisannという随想があり、それがこのログのタイトルを変えるきっかけになったのだけれど。

そんな事を考えながら少し眠気を感じていた僕は、遠いむかしに経験した授業中の居眠りのように、きっとほんの数分だけれど確かに眠ってしまったのかも知れない。いつの間にか先ほどまでブランコと滑り台で遊んでいた親子の姿もなく、静かになった公園で耳に入る音は鳥の声だけだ。

目の前に広がる花達はほとんど青くなった背景の中で、それは美しいコントラストを奏でていた。視点を定めずにボンヤリ眺めていると、花を見ているのとは少し違った奇妙な感覚になっていた。それは目の前に広がる光景がいったい花なのか、星なのか・・・それはどこまでが夢(妄想)でどこからが現なのかすらの区別もよく判らなくなってしまいそうなものだった。

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そんなウトウトした感覚の中でフト浮かんできた単語が”夢寝見”だった。
これは随分とむかしの陽水の曲で、今では歌詞すら思い出せないけれども、曲のなかで”夢寝見”と彼は何度も囁いていた。この調子だとたぶん来年の今ごろもログの名前が変わるのかも知れない。



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< 光彩 銀河 >
山形県米沢市

  
   
陽もだいぶ傾いてきた頃、背中が冷えてきたので起き上ると、不意にこの光景に出くわしてしまった。それを見たときに何か遠い遠い記憶の底に引っかかるものがあって、その場では想い出すことが出来なかったけれど、この絵をいろいとといじっているうちにようやく繋がった。

あれは小学校低学年の頃だったろうか? いや、それよりも少し後だったかもしれない。それは当時住んでいた家の(今はもうないけれど)二階の西窓の光景だった。その時僕は風邪かなにかで熱を出していた。すごく体が熱くて苦しくて、ウトウトしては目を覚ます事を繰り返していた。夕方近くに部屋の奥の布団にまで届く西日に気が付き体を起して見たのがこれと同じ光景だった。その時は少し風がある日で、花びら越しの日差しがキラキラ揺れていた。それだけをじっと見ていると宇宙に茫漠と広がる銀河を見ているような気になったのを覚えている。そのイメージが長いあいだ僕の意識下に残っていたようだ。
けれどもそれをよび醒ましたのはその時一瞬だけ吹き抜けた、 ’12春風のいたずらだったのかも知れない。

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Desperado < The Eagles >

  
この曲は日本発売仕様でのアルバムタイトルとなった”ならずもの”で、シングルカットされる事はなかった、僕にしてみればまぼろしの曲だ。
以後カーペンターズが”愛は虹の色”という曲名でカヴァーしたりしている。もう30年も前のアルバムだが、今ごろの時期むしょうに聴きたくなる。そう言えばこれがリリースされたのは、薄ピンクの雪がときおり風に舞う今ごろの時期だった。

    

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< Crystal 越しの風景 Ⅰ/Ⅱ >
山形県米沢市

 

   

      

  

   

   

   

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