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2011年12月21日 (水)

冬至の頃

11120401
日 南 の 限 り を 行 き て  日 の 短 き の 至 り  な れ ば 也
           ”暦 便 覧”

                                                  
僕は毎年この日が訪れるのをひそかに心待ちにしている。
ここ一週間程だろうか、やはり冬至間近のきわだった日脚の短さは、決して気持ちが明るくなるものではない。午後3時を廻るのを待ちかねたように、早ばやと暮色に染まりはじめる景色を窓越しに眺めながら、日没がいまより3時間も遅くなる夏至という季節の事をひたすら想っている。
だから僕にとって冬至とは一足早い正月、いや事実上の正月と言っても過言ではないのである。それは子供がクリスマスだとか、正月をゆびおり数えて待ちこがれるその気持ちに似ている。

冬至という日が一刻も早くすぎて欲しいと願う僕なのだが、じつは今頃の日差しも時期的な特徴があって好きなのだ。
それは室内の奥ふかくまで差し込む、あくまでも弱くその中に優しさすら感じるこの時期限定の陽光だ。西日の射すことのないこの書斎。普段は陽のあたる事のない部屋の奥で、この優しい陽光がおりなす光のマジックについ、見とれてしまう事がある。

昔は冬至の事を”一陽来福”と言っていたと聞いた事があった。
この言葉は確かに冬が終わり春が来るという意味と、良くない事が続いたのちに幸運に転じるという意味もあるようだ。きっと昔人たちは冬至を冬のどん底となぞらえて、ここから太陽の光が少しづつ復活して春に向かうと表現したのではないだろうか。今年うまくいかなかった事も、来年こそはきっと良い方向へ向かうのだという願いを込めて。
  

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Vivaldi - Four seasons, Winter 2nd movement   この楽章は四季という協奏曲の中でも一番好きな曲だ。

< 四季・冬/第二楽章を聴きながら >

   
ソロ・ヴァイオリンが歌うように奏でる美しい旋律。
僕にはあたかも長く厳しい冬の日々の中で突然におとずれた、とあるやすらぎの時間を連想させるようなやわらかな響きに聞こえる。むかしこの協奏曲に関する何かの解説書で読んだ記憶があった。ヴィヴァルディーは冬の暖かい室内の様子を表現するための工夫を凝らし、いずれも楽譜に注釈を以て記されていたと。それらはヴァイオリンパートのピチカートで雨音を表現していたり、チェロパートで奏でられているのは暖炉で燃える暖かな炎であったりする。耳よりもいきなり毛穴から滲みこんできたこの曲が、あたかもマウスでクリックするかのように僕の脳内で起動した絵。それはあたたかな室内から窓越しに眺める冬の風景だった。
    
窓枠という額縁の中には葉の落ちたさむざむとした雑木林があり、その右手奥にはかすかに湖が見える。煙るほどではない間隔のあいた雨、それは間もなくみぞれに変わるほどの冷たい雨に違いない。暖炉の前には四角いテーブルと椅子が置かれてあり、その上に載っているのは落ち着いた色彩のポットとカップ、それにほんの少しの焼き菓子だけだ。ポットから注がれた熱いお茶の湯気の向こうには、時折パチパチとはぜるやわらかいゆらゆらしたオレンヂ色の炎がみえる。まもなく湯気と炎がシンクロしだすと、それらは水色の中にとけいるように消えてゆく。

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11120406

< 師走の暮色-02 >
山形県米沢市

   
    
冬至を境に気持ちは春めいていても、これからが寒さの本番である事実上の"底冷え"の時期を迎える。けれどもこれからは太陽が顔を出す場所と沈む場所が、それぞれ少しづつ北側へと移動を始める。季節は巡り道路の水たまりの”烏の足跡”が付くように凍り始めるような、ものすごくすごく冷え込む夕方にフト気が付く事。それはその光景を目にした時刻こそ、冬至の頃にはもうすでに漆黒の夕闇だった時間なのだ。
厳寒の中にも”光の春”は確実に訪れているのを感じる時期がもうすぐやってくる。冬来たりなば春とおからじ・・・・・と。

   
    





    

   

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