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2011年11月16日 (水)

標高1199m 兼続の見た光景

僕の住む小さな街には”兜山”と呼ばれている山がある。
この山はよく戦国時代に出てくる”兜”のような形をしていて、名前の由来にもなるほどと納得はしていた。けれどもこの山が僕の興味を惹いていた理由は他にあった。

その理由とは城下町であるこの街の都市構造だった。当時の城址大手門前通りとも言えるメインストリート(南北線なのでアベニューが正しいのだろうけれど)の延長上にこの山があることだった。ちょうどまっすぐな道路と街並みが続く約3,000mの直線道路の正面に、僕らを見下ろすようにどっしりと構えている独立峰なのである。

この事に気が付いたのは’80年のあたりだったように思う。この道路と山の位置関係について、とかく偶然と言うよりもなにか人為的な意図を感じていたのだった。よく見てみると山の中心線と、道路の中心線が少しズレているようにも見えていたのだが、実際に登ってみてこの山と道路の事実関係に驚く事になる。
それは山頂の木の高さにごまかされていたが、この山のピーク(一番高い頂上)は尾根の中心ではなく、向かって右側の急峻な尾根を登りきってすぐの場所、つまりこの道路のセンターラインの延長上にあったのだ。
 
    

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< 兜山という 原風景 since 1980頃 >
山形県米沢市

 
10年程前の事だっただろうか。
たまたま知人と山の話になった時に、”兜山”は直江兼続がこの上杉藩城下町の都市計画において、この盆地を一望できる場所として登った山だと聞いた。この盆地を一望できる山は他にも数多あるのだが、何故に?と疑問がわいた時に、この原風景が脳裏をよぎった。その日からだったような気がするのだ、僕がこの山に一度は登ってみたいという思いが湧いたのは。


ずっと昔のことになるが、僕は山をやっていた(山に登っていた)ころがあった。
そのころ身に付いたことなのだが、今でも山容をよく気に留めるのだ。それは山をやる者の必然的な機能(能力)として身に付けなければならないもので、特に目標物のない尾根の縦走などでは、その辺の手近なピークの山容を記憶しておき、その見え方がどう変わるかで自分の進路や位置、概ねの高度を知ることが出来るのだ。かくしてこの山容も僕の記憶の奥底のリストに眠っていた。

何日もかけて山路を縦走する北アルプスや、それでも最低2~3日を必要とする地元の飯豊・吾妻・朝日の各連峰などにくらべれば、登るのは造作もないことだろうと思いつつ、忙しさにかまけて(休日の天気もだが)山を下りてから20年、話を聞いてから10年と言う歳月が流れ、兜山を見てもそのピークに立ってみたいという思いすら薄れかけていた。


それが今年の春頃からだろうか、動機(理由)は僕自身よく解からないのだけれど、あの山からの景色をどうしても眺めてみたいという思いが再びフツフツと湧いてきたのだ。けれども春・夏共に空気の清澄度があまり良くなく、大気の澱みがちな眼下の街並みを見下ろすというシュチュエーションには相応しくない。
必然的にあの山をやるのは秋しかないという、僕の中での勝手なストーリーが出来上がっていた。

  

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< 400年前・兼続の見た風景 >

    
空間的に言えば、
通りの中心地点から南南西よりも少しだけ南寄りに約13kmの地点。標高差は市街地より約950メートル程高い所で、湿度が同じならば気温は約6℃程低い場所で・・・
地の利的に言えば、
同じ場所から鉄の馬を走らせること約30分、そこで馬を乗り捨てひたすら山を登る事1時間40分程の場所なのだ。

ようするに市街地からこの山を見上げて、その気があればジャスト130分でこの場所に立つことが出来る、現代ではそれほど遠い場所ではないということだった。(但し登山道は夏山という条件に限るのだが)
  

***

夏山と言えば・・・・・
左端遠方に見える、ロクに木も生えていな茶色の連峰が”朝日連峰”と呼ばれる山で、山頂までのアプローチが実に遠いので、東北のアルプスと言われる連山である。
さすがに今の時期は少し寒く感じる6℃低い風に吹かれながら、僕はそこを縦走中に凍死しかけた事を思い出していた。それは冬や春・秋の季節などではなく、夏も盛りの8月1日の暑い日の事だった。

山はその過酷な環境の中へ訪れる者達を、時にはその命と引き換えにと言う条件付きで、温かく迎え入れるのである。
(この場所は、凍死しかけた場所の標高よりもわずか600m程低いだけなのだ)

***

 

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< 兼続 アベニュー >

  
  
現在の米沢城址は本丸の部分しか現存してはいないが、城址を中心として防衛上の配置も勘案しながら、一番のメインストリートとなる大手門の前通りを彼はここから構想したのだろう。

新町名移行後もそのまま残っているこの大町通りは、米沢城大手門の前通りという意味と、代表的町という2つの意味を持っていたと聞いている。なんでも上杉時代は城下随一の問屋街としてにぎわい、豪商が店を構えていたらしい。 旧町名の、鍛冶町や銅屋町、木挽町や粡町(粡とは籾のこと)など、生活や武器の製造に密着していた町名が残っている僕の愛してやまない街なのだ。

この場所から眺めたアベニューは昼過ぎのいつもの日常光景、行きかう車で賑わっていた。
   

***

  
山頂から約50分をかけて下りてきた僕は、もう一年分のエクササイズをやり終えたような気分だった。肉体的には最近体験したことのない充足感すらあった。予定になかったことだが、帰りは山頂から見えた温泉街に鉄の馬の手綱が向いていた。その温泉は小野小町が開湯したと伝説が残る、この街の奥座敷を言われる温泉街である。
1,200年の長い伝統があり、全国トップクラスのラジューム含有量を誇っているのだが、僕は連休明けの頃から10月頃まで足が遠のいてしまう。その訳は泉質がひどく温まる泉質なのだ。特に真夏などにのんびりと浴ってしまえば、30分以上も汗が引かなくて後悔してしまう程に。
   

***

登山道を下りながら僕はある事を思っていた。
むかし山をやっていたころはそれなりに体を鍛えていたものだが、それが今では特に運動という習慣がなくなっていた。たまに岳人となるのもいつも鉄の馬を従えてのことで、そこから歩いてもせいぜい10~20分のハイキング程度なのだ。それがいきなり標高差約1,500メートルの急峻な山を登り下って、どの程度のダメージが襲ってくるのだろうかと言う事だった。

次の日は疲労感は少し残るが、その翌日もわりと平気で、気分的に若返ったと錯覚する中で、きっと50%はあの温泉の有難い御利益に違いない・・・と油断した僕を3日後の午後に襲ったのはかなりのタイムラグをもったあのまぎれもない筋肉痛だった。
階段を後ろ向きに降りなければならないひどい筋肉痛はその後、3日程続いたのだった。

   
    
    
    

   
   
   
  

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