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2011年10月18日 (火)

活字を辿るカンキョウ

  

外で本を読む心地よさを感じたのは、以前(さくらの頃)にも記したが連休の頃だった。
反省しなければならない事なのだが、取説やマニュアル的な冊子はいつも読む(目を通す)のだけれど、昨今誰にでもある活字離れというのだろうか、ここ3年程はまともに本を読んだためしがなかった。それで今年の連休にさくらの花びらが舞い落ちる中、ベンチに腰掛けて文庫本を3冊程読んだのだった。

からだを通り抜ける爽やかな風の中で目に入る活字たちは、いつも見慣れたモニタに映し出される少しギザギザした文字よりも何十倍も美しく、鮮明に心に中に入ってきた。その中の一冊にこのlogのタイトルを変えるに至った一冊があった。
J.Tnizaki氏の著書 Inei_Raisan である。

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僕はずっと昔、星新一のショート・ショートを良く読んでいた。
それを今年三十数年ぶりで読んでみた。当時少年といっても良い年齢に読んだ時は、面白い角度からの物事の切り取り方など、いろいろと自分の身になったような気がしていたものだ。そして今度読んだ時はあの時とはまた違う、さまざまな連想や想像とかが広がった。それはきっとあれからの時間というものがもたらしてくれた感覚なのだろう。
   

1110031

< イスのある風景 Ⅰ >
福島県北塩原村

   
この場所は夏に一度訪れたのだが、その時はひどい夕立だった。
風の高原の帰りに立ち寄ってみると、遅い午後の少しひんやりとする初秋の風が気持ちのよい、格好のプライベートな読書スペースだったことに初めて気が付いた。
  

< サリーの指定席 を聴きながら >

 
春以来一人で出掛ける時には、鞄に本を一冊入れる事が多くなった。
時間とこんな環境があれば、今は端末やケータイよりも活字の方が合っているのかもしれない。僕を良く知る人は周知の事実なのだが、実は
ケータイでメールを打てないのだ。いや、打てないと言うのはケイタイのキーボードを開発した人に失礼となるので、慣れていないと言う表現が正しいのだろう。何故かと言えば文字入力時の切り替えの煩雑さに、必要性がなかったので慣れなかった言うのが正解なのだ。数字・アルファベット・片仮名・漢字が混在する文章だと、半分泣きたくなる。
それぞれの入力モードで漢字以外の記号をあらかじめ全部打ち、その間にひらがなと漢字を埋めていくという、常人に言わせれば信じられない打ち方なのだそうである。そんな訳でケイタイに接続できるそれこそ、ケイタイのフルキーボードの開発を待って止まないのだ。
   

1110032

< イスのある風景 Ⅱ >
宮城県松島町

  
 
図書館などは生涯縁のない場所だと思っていたのだけれど、今年新しい発見があった。
僕なりにはお堅い書籍だけがずらっと並ぶイメージしかなかったものだったが、そこには雑誌、新聞、はては週刊誌まで置いてある事を知ったのは、ついこの間梅雨明けの頃の事だった。

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これから冬を迎えるまで、つかの間の時間があるのだが、外で本を読むのには僕の住む地方では気温も下がり、そろそろ難しくなってきた。

小春日和の昼下がり心地よい日だまりの中で活字を辿りながら、もうすぐ訪れる厳しい季節を前に太陽の匂いを記憶に留める。
このやわらかな時間がたまらなく好きだ。

   

   

   

   

  

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