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2011年10月の記事

2011年10月31日 (月)

オヤジさんのこと

親友がいつも招待してくれる鮎茶屋が、今年は僕ひとりだけの不都合で中止になってしまった。
そんな彼から今月初め、今度は秋刀魚茶屋の開催を知らせるメールが届いた。この事は先月、カヲル水を飲んだあの雨の月曜日から、ずっと気になっていた事だ。秋刀魚茶屋は今度こそ僕が主宰せねばと思っていたのだが、結局先を越されてしまった。

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僕は小学生入学直前に父親を亡くしている。
親友の父親であるオヤジさんとの出会いは、もう30年以上も前の事になるだろうか。彼にとっては実の父親な訳で、様々な忠告や助言はいつも”うるさい”と言うような仕草で返答していたものだっだ。けれども父親のいない僕にとってはそんな会話が実に楽しく、貴重な時間だったのを良く覚えている。

 
若気の至りを隠れ蓑にして皆で飲んで騒いでいた夜に、オヤジさんは時折差し入れか何かを持って混じってきて、いろいろな話を聞かせてくれた。実の息子にしてみればきっとうるさかったのだろう、彼の不機嫌さと裏腹にいつも話終えると引き留める僕を、横目に見ながら早々と寝室に引き揚げていったものだった。
  
 

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< Mr. Bankara_TATSU >
山形県米沢市

  
  
最近(ここ10年程)オヤジさんとは年に1度程しか、顔を合わせることはなくなっていた。
ひどい時には2~3年振りという時もあった。この日は期待して来たのだが、彼の話ではオヤジさんは町内のいも煮会に出かけているとの事だった。僕は残念な気持ちでいっぱいだったのだが、それは日もだいぶ傾きかけた頃だった。
聞き覚えのある声で振り向くと、後ろの道路になんとオヤジさんが現れていて手を振っているではないか。僕は思わず箸とグラスを放り出して駆け寄った。お互い酔っぱらっているので、握手をするわ、抱き合うわ、帽子とサングラスを交換するわで、肩を抱き合いながら宴席に戻った僕らを親友はヤレヤレ、こいつらは・・・という呆れた表情を浮かべながら笑って迎えてくれた。

僕のサングラスをかけてポーズをとる、なんともとっぽくて素敵な、そして愛すべきオヤジさんである。きっと昔はバンカラを絵に描いたような学生生活を送ってきたひとなのだろう。


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< ウヰスキー  2011 >

  
 
茶屋の席で僕は彼の事を、親しみをこめて”親方”と呼んでいる。
なぜならば彼の友人も含めて、すべてが招待された客人(手伝いはさせてもらえない)として迎えられるからだ。まず最初にかれ流のもてなしである、冷凍庫でキンキンに冷やされたグラスに、いつもわざわざ用意してくれている僕の大好きなモルトビールを皆で満たすと、親方の合図で4カ月遅れのあゆがサンマに代わってしまった茶屋が賑やかに開店した。

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いつも返信メールの末尾に”ハイボールは俺にまかせろっ!”と一行付け加えている。
僕にとってその時に飲む、飲まないは別にどうでもいいことで、他の友人も含めアルコールの選択肢が多ければおおいほど、のんべぇにとって安心するものなのだ。親方同様こだわる所にはキッチリこだわり、今年もウヰルキンソンのタンサンを求めたのだが、壜は手に入らずはからずもペットボトルとなってしまったのだ。モルトビールもほとんどたいらげ、また少し気温も下がって来たので、みな温かいものにスイッチする中、このNEWSのハイボールに憑かれてしまったのは、なんと親方の友人であるスーさんだった。
実はこのラベル、懐かしいと思われたご諸兄方もいるのかもしれない。多分販売ルートか地域性のせいなのだろか、春にこのラベルを見たのは実に二十数年ぶりだった。いまでこそ酒税法が改正となり、かなりリーズナブルになった高級国産ウヰスキーなのだが、それを買えなかった時代、ネーミングも気に入ってよく皆で飲んだ。安いウヰスキー特有の少しピリッとした印象が色濃い青春の味なのだ。
  


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< 斜 陽 >

  
  
親方のこだわりぬいたアテの行列に、僕ら客人はひたすら恐縮していた。
だいぶ毒も回り、いよいよ秋刀魚の出番となったが、いったいどこから仕入れてきたのだろうと、ビックリするくらいに大きな秋刀魚だった。炭火に落ちたあぶらが白く香ばしい煙を大量生産するなかで、僕ら客人は実に楽しい秋の日を満喫していた。

夏至のころでは考えられない程、日あしが短くなった事にフト気が付く。
秋刀魚が焼きあがるとそこに親方は多量の炭を追加した。季節(時間)の流れは夏にあれほど嫌っていた火の傍らに、今度は人を引き寄せる。炭火のそばに椅子を移動して、オジさん達のオトナ茶屋は延々と続いた。
   

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そろそろお開きという頃。
かなりアルコールが廻った頭の中に、なぜかしら”北風と太陽”のイソップ寓話がフト思い浮かんでいた。

  
  

冷酒と親父の小言は、あとで利く

< 詠み人不詳 >

   






    

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2011年10月24日 (月)

スピリット アンセム spirit anthem (2/2) 

    

自分の考えていなかった環境へ足を踏み入れるには、ほとんどの場合誰か媒体が必要なものだ。
けれども僕の場合はそうではなかった。転職と言えば聞こえがいいが、会社のマネジメントという組織からしっぽを巻いて逃げだしたのだから。半分現実逃避というのが真実だったのだろうし、サラリーマンという職種に戻るつもりはもうとうなかった。

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単なる思いつきで選んだのが、現在と類似した仕事だった。
例えば同じ一つの物事でも、人が違えば仕上がりが違うように、どんな世界にでもランクのようなものは必ず存在する。同じカテゴリの中での
まぎれもないその事実を、ある出来事で体感した僕は、思いつきで自ら選び学んできたものを、何の躊躇もなく捨ててしまった。レベルの違いをまざまざと見せつけたその人物こそ、現在のBossである。
2~3年程経った時だっただろうか、その事について想う機会があった。
それは僕自身にとっては今までのこれらの出来事が、”それ”と出逢うための単なるプロセスであったような気がしていた。
   

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< Road 2/2 成長・・・越して行く時 >
福島県北塩原村

   
  
自分の環境を変える。
それはものすごいエネルギー(体力)が必要な事だ。ある意味ギリギリまで自分を追い込む、ストイックな精神状態を要求されるシーンだってきっとあったことだろう。そんな中でいろいろ模索したり悩んだりとしている中、時間だけがその葛藤などに引っかかる事なく、ただ、唯、サラサラと流れていくのだ。
人生・・・ムダな事はないと、良く聞はなしである。
若い頃はその歯がゆさばかりが記憶に残ったものだが、最近少しオトナになれたのだろうか、その意味が少しずつであるが理解の範疇に入って来たような気がする。それはきっとそのために何かに費やす時間だったり(たとえ徒労に終わったとしても)、人やモノとの新たな出会いも、もちろん含まれることだろう。僕自身、今の仕事に就くまでは随分と遠まわりしたように感じるのだけれども、けっしてそうではなかったのだと今しみじみと想っている。
昔、我を忘れるぐらいに夢中になったもの。
けれども今は遠ざかったものの数々。それはきっと自分が変わった事も確かにいがめないのだが、なによりも自身の生活環境(様式)が変わったのも大きな要因の一つのような気がするのだ。けれどそれに費やした時間や、そこから得たスピリッツはけっして遠くの大河に流れ去ったものではなく、自分の中に脈々と息づいている。そとからは見えない自分の幅(広さ)となって。
   
   

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好きな言葉に 『一意専心』 というのがある。
僕自身がそれを実践できているのか、否かという問題は別なのだが。すごく遠くに住む知人にそれをきちんと実践している人がいる。それがどれだけ素晴らしい事であるか、そして尊い事であるかを僕は知っている。風見鶏のように時節の風に惑わされず、初心一徹、一心に一つの道を極めている人だ。それも自分の為ではなく客人の為にである。
時のニーズを常に感じながら、一つの基本軸を曲げる事なく、常にベストなサービスを提供し続けてくれることだろう。


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< 光る湖面 動と静 >
福島県北塩原村

   
   
サラリーマンという生活を辞して、それからこのLogを書き始め、最近気が付いた事があった。
人の周りというものは、その人と同じ種類の人間が集まるようになっているのではないのだろうかという事だ。上手く表現できないのだけれども、ちょうど嗅覚みたいなもで互いに引き寄せられるようにして寄ってくるような感覚なのだろうか。
そして付き合っていた(関わっていた)期間の長さとかには全く関係なく、その人達は ”密度の濃い何か” を僕に残して去っていった。
その数は自分で考えているよりもずっと多いのだろうと思うし、日常では思い出す事はあまりないのだけれど、彼らが残して行った密度の蓄積がきっと、今の自分なのかもしれないとこの頃思うのだった。

  

< ジムノペティー 第一番 を聴きながら >
  
     

昨日まで持っていた夢と
明日から持つであろう思い出を
足したものの総計が
今日という日なのだよ

ウィリアム・シュービン

  

  

  

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2011年10月18日 (火)

活字を辿るカンキョウ

  

外で本を読む心地よさを感じたのは、以前(さくらの頃)にも記したが連休の頃だった。
反省しなければならない事なのだが、取説やマニュアル的な冊子はいつも読む(目を通す)のだけれど、昨今誰にでもある活字離れというのだろうか、ここ3年程はまともに本を読んだためしがなかった。それで今年の連休にさくらの花びらが舞い落ちる中、ベンチに腰掛けて文庫本を3冊程読んだのだった。

からだを通り抜ける爽やかな風の中で目に入る活字たちは、いつも見慣れたモニタに映し出される少しギザギザした文字よりも何十倍も美しく、鮮明に心に中に入ってきた。その中の一冊にこのlogのタイトルを変えるに至った一冊があった。
J.Tnizaki氏の著書 Inei_Raisan である。

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僕はずっと昔、星新一のショート・ショートを良く読んでいた。
それを今年三十数年ぶりで読んでみた。当時少年といっても良い年齢に読んだ時は、面白い角度からの物事の切り取り方など、いろいろと自分の身になったような気がしていたものだ。そして今度読んだ時はあの時とはまた違う、さまざまな連想や想像とかが広がった。それはきっとあれからの時間というものがもたらしてくれた感覚なのだろう。
   

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< イスのある風景 Ⅰ >
福島県北塩原村

   
この場所は夏に一度訪れたのだが、その時はひどい夕立だった。
風の高原の帰りに立ち寄ってみると、遅い午後の少しひんやりとする初秋の風が気持ちのよい、格好のプライベートな読書スペースだったことに初めて気が付いた。
  

< サリーの指定席 を聴きながら >

 
春以来一人で出掛ける時には、鞄に本を一冊入れる事が多くなった。
時間とこんな環境があれば、今は端末やケータイよりも活字の方が合っているのかもしれない。僕を良く知る人は周知の事実なのだが、実は
ケータイでメールを打てないのだ。いや、打てないと言うのはケイタイのキーボードを開発した人に失礼となるので、慣れていないと言う表現が正しいのだろう。何故かと言えば文字入力時の切り替えの煩雑さに、必要性がなかったので慣れなかった言うのが正解なのだ。数字・アルファベット・片仮名・漢字が混在する文章だと、半分泣きたくなる。
それぞれの入力モードで漢字以外の記号をあらかじめ全部打ち、その間にひらがなと漢字を埋めていくという、常人に言わせれば信じられない打ち方なのだそうである。そんな訳でケイタイに接続できるそれこそ、ケイタイのフルキーボードの開発を待って止まないのだ。
   

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< イスのある風景 Ⅱ >
宮城県松島町

  
 
図書館などは生涯縁のない場所だと思っていたのだけれど、今年新しい発見があった。
僕なりにはお堅い書籍だけがずらっと並ぶイメージしかなかったものだったが、そこには雑誌、新聞、はては週刊誌まで置いてある事を知ったのは、ついこの間梅雨明けの頃の事だった。

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これから冬を迎えるまで、つかの間の時間があるのだが、外で本を読むのには僕の住む地方では気温も下がり、そろそろ難しくなってきた。

小春日和の昼下がり心地よい日だまりの中で活字を辿りながら、もうすぐ訪れる厳しい季節を前に太陽の匂いを記憶に留める。
このやわらかな時間がたまらなく好きだ。

   

   

   

   

  

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2011年10月10日 (月)

十三夜 と 寒露

   

今年は十三夜と寒露がぴったり同じ日にマッチした。
とかく世間から脚光をあびる傾向の多い十五夜(中秋の名月)に対し、十三夜には少しマイナーなイメージがあるのは、きっと僕だけではないのだろう。ずっと昔の話になるが、十五夜を観た後は翌月の十三夜も観ないと、確か片見月と言って良くない事なのだと言うのを聞いた事があった。それが何を意味しているのかその頃は良く判らなかったけれど、ネットで見てみると地域性があったりとさまざま諸説があるようだ。
  

< Moonlight serenade を聴きながら >

  
周囲の空に明るさがまだ残る東の空に昇ったばかりの月。
これこそ絵になる定番の月で、肉眼で観るには一番美しいように思うのだ。けれども、いかんせんこの時間がとっても短いのである。月の出から時間が経って、高度と明るさを増した月は直接観ると、うさぎが見えるどころか眩しさばかりを感じてしまうのだった。


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< みなもの 十二夜 >
山形県米沢市

  
  
だからであろうか、平安時代の貴族も観月の宴や舟遊びと称して、杯や揺れる水面に月を映して愉しんでいたようである。
これは実に粋な遊びだったのではないだろうか。たぶん僕がそれをやろうとすると、きっと(いや、必ず)杯の中身には思いっきりこだわるのだろうけれど。まぁそれとはまったく関係のない話だが、今年はどうした訳か十五夜も十三夜も外(の屋内)での観月(灯)となってしまった。
だから今回は残念ながら前日の十二夜なのだ。
  
  

11100202

< 2011-十二夜 >

   

当時、時の天皇は他に並ぶものがないほど美しい月だと讃えていた、と言うのを聞いたことがある。
満月のように完全ではないこの慎ましさが、日本人の心を魅了するからなのだろう。この月を見ていてフト心に浮かんだ曲があった。それは
荒井由実の十四番目の月だった。”次の夜から欠ける満月より14番目の月が一番好き”というこの歌詞は、僕の中ではなんだか遠い昔、
中学校の頃か学生時代の土曜日の夜の感覚に似ていた。

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ふと周囲を見渡せばいつの間にか、周りにはすっかり秋本番の気配が漂っていた。

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< いつもの日常風景 >
山形県米沢市

   
これから寒さに強い菊の花が最盛期を迎える。
僕の地方では菊(食用種)はごく普通に食べる習慣があるのだが、場所が変われば菊は食べる事はないと聞いた。この菊が食卓にのぼると
このあたりの人たちは、冬が間近い事を感じとるのである。

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< 2011-寒露 ・ 朝の眺めと 旅人 >

  
くしくもこの日を待っていたかのように、僕の住む盆地が今年初めての霧につつまれた。
それほど気温が低くなかったので、近くの河川敷をのんびりと歩いてみる。 春は霞、秋は霧。 同じ現象でもかすかな趣の違いを感じ取り、
言葉を使い分ける日本人特有の感性が好きだ。
    
    
    
   

   

   

    

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2011年10月 3日 (月)

スピリット アンセム spirit anthem (1/2) 

  

サラリーマンという業種の職を辞してから、間もなく10年という月日が流れようとしている。
その3年程前まで僕は、第一線で仕事をしているエンジニアだった。けれどもその年の春に、年度末の区切りを待っていたボスに内勤を命ぜられたのだった。かくして社内勤務となり自分の仕事の内容も大きく変わった。会社のマネジメントに係わってくると、いままで見えなかったものや、気が付かなかったことが嫌がおうなしに自分の中に入ってきていた。

会社という組織(マネジメント)の中で生きていける人間と、そうでない人間がいると言う話は聞いた事があった。けれども僕自身がその適応障害を持っているなどとは、初めは認めたくなかった。けれども砂の城を波が少しづつ侵食するように、僕の中で何かが崩れ始めていたのだった。

そして当時、何よりもボンヤリとだが『このままでは・・・』と思っていた僕の心を駆り立てたのは、一人の取締役が半年後に退職する事実を知った時だった。それはちょうど、ニューヨークであの悪夢のような出来事が起こった頃である。

  

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< Road 1/2   疾駆・・・駆け抜けてゆく者 >
山形県西田川郡温海町

   

取締役が5月末で退職する事を知った僕は翌年早々、3月末での退職届を提出した。
ボスは人徳も厚く、なによりも個人的に早く父親を亡くした僕にとっては、父親代わりに面倒を見てくれたまさに、オヤジさんと言うべき人だった。
当時は国家資格者の数で企業のランクが決まる時代だった。だから僕は死んでも同業他社への身の振り方を選択する訳にはいかなかった。
極論を言えば一般的にエンジニアとは、専門バカと言われる輩が実に多い職種であろう。自分の専門分野では何でも出来るのだが、路線を逸れると足元がおぼつかなくなる事はご諸兄も御存じの通りである。だから同業他社へ移籍する人が多いのだと思うし、結果的にそれが一番ラクなのかもしれない。


1110012

< Rail way   ずっと続く緩やかなRの先へと >
山形県米沢市

  
    
何度もボスに呼ばれて、ギリギリまで話をされたが僕の気持は変わることはなかった。
退社という行為は、そんな恩義のある人を事実上裏切る事になるのだろうけれど、僕は同業他社に行くつもりなどもうとうなかった。だからこの行為は決して裏切りには当たらないのだ。
と自分という被告人を弁護しなければならない、国選弁護士にでもなったつもりで、必死で自己弁護していた。

信じてもらえないかもしれないけれど、会社で開いてくれた送別会の席ですら、次に食べていく手段(仕事)が決まっていなかった。当時僕の心の中は、取締役より自分が早く辞める安堵感しかなかったような気がする。ただ次に僕が何をやるのかについて、興味本位な噂が数多く飛び交っているのは知っていた。きっと良くない事だったのだろうけれど、それらをアレンジしてかえって噂の出所を混乱させるような、つじつまの合わない嘘をついていた。

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それから約3年後。今思えばいろいろな運命の屈曲のようなものを経て、現在のBossと出逢う事になる。

 

  

   

   

   

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