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2011年8月の記事

2011年8月20日 (土)

暑さの肌触りと 盆休みの感覚

  

『旧盆と青林檎・・・』の次の日、やはり後悔してしまった。
いつもと違うシュチュエーションは、飲みすぎる原因を間違いなく提供してくれるのだった。最初は想定される翌日の”不快感”に対しては必ず、認識ある過失というスタンスで飲み始めるのだが、Alcが大脳皮質を侵す頃には困ったことに、いつの間にか未必の故意にちゃんとすり替わっている。きっと酒好きのご諸兄ならばこの感覚は、御理解いただけるかと思うのだが・・・・・失礼。
 

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< 水面の残暑 >
宮城県川崎町

  
今の季節は仕事柄一日中、空調の中で過ごすのがごく日常となっている。
そんなに汗をかくこともなく、喉の渇きもそれほどではないので麦酒の感動もそれなりなのだった。それと共に齢を重ねるとなんとなく日差し(直射日光)を無意識に避けるようにもなっていた。それで僕は予てから考えていた自分の皮膚を、夏の暑さ(気温)に一日曝してみようと思ったのだった。
現代医学の常識である、「失われるべき水分は事前に摂る」の鉄則に則り、1リットルの水を飲み干すと、エアコンの利いた鉄の馬から、32°の気温の中へと繰り出した。ずいぶん久しぶりの夏の肌触り。でも心地いいと感じたのは最初の30分位だろうか、頬を汗が流れる感触は随分と久しぶりの感覚だった。このくすぐったいような感覚は以前、いつもこんな中で仕事をしていたサラリーマンの頃を想い出させてくれた。

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その頃のお盆休みや正月休みは、やはり特別な休日だった。
でも単純にそれは出社しなくてよい、単なる連続した日にちだけでしかなかった。あそこに行きたい、何をしようとか随分と綿密に計画を考えたものだが、その生活を辞してからその感覚もだいぶ薄くなった。
というのは、仕事と私用の明確な区別(たぶん出社と退社と言う行為)がなくなってしまったからではないかと思っている。そして僕の場合、仕事場(兼書斎)にいると自宅にいるよりも妙に落ち着くのでだった。実を言えば、僕を良く知る人さえも知らない事だと思うが、自宅には自分用の歯ブラシも洗面タオルも存在しないのである。つまり休日でも必ず洗面の為に此処にやってくる必要があるのだった。雪深い真冬、それも元日でもその習慣は変わることはない。

そういえばそんな話をして盛り上がったのはいつか記した、(ランチタイム 最後の客)の店の主である。彼はさすがに店には洗面道具は置いてないのだろうが、休日に何処かに出かけた時でも、帰りには必ず一度は店に立ち寄るそうである。
これは僕の想像なのだが、店のドアを開けいつもの空気(匂い)の中で、今日何処かで充電してきた自分と、明日からの新しい週の仕事の事を想うのだろう。
会社員の時には休日に会社に立ち寄るなど、あまり考えたくない事だった。しかしそこが自分の仕事場(ステージ)となると変わるものである。お盆やお正月休みは、子供も大きくなってしまった今では、単に世間体の為に取るようなものであって、早くそれが終わって大手を振ってここに居られる、日常的な仕事生活に戻った方がずっと気持が落ちつくようである。

***

午後になると雲行きが怪しくなり、突然のにわか雨が降りだした。
それが上がると何事もなかったように再び太陽が照りだした。先ほどの雨を容赦ない夏の日差しが気化させた。それこそ湿気が全身に纏わりつくというのだろうか、熱帯のジャングルってこんなんだろうなと歩きながら考えていた。

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公園の中には様々な花が植えられていた。
しかし花の名前にはまったく疎い僕にとっては、どれ一つとして名前すら知らないものばかりだったのだ。まぁ強いて言えば上の絵の右側のひとコマは確かキンギョ草・・・だろうか?
花に関してはこんな程度しか知らないのだった。でも心休まる花の美しさに開眼してしまったのは、4月の記事に記した(春色 Blue-sky 地上支部) 通りである。

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< 季節の花 >

 
ゲートを入って間もなくのところに『時の広場』という、不思議な巨石の広場があった。

案内には

>かつて東北地方がその中心だった縄文文化の土器の模様をモチーフに、
>「混沌の中から生まれた生命の根源と未来に向かって力強く成長してゆく悠久の時の流れ」をコンセプトとする巨石のひろばです。
>生命の根源(アンモナイト)、人間の生命のひろがり(ビー玉で形作られた渦)、人間の躍動感(巨石)を表現しています。

と記されてあった。


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< 縄文の記憶 >

  
なんだか昔懐かし見慣れた風景に思えた。
遠い遠い昔、こんな景色の中で暮らした記憶がありそうな・・・そんな想いにさせる光景だった。

帰路に偶然通りかかった道すがら、今年初めてのひまわり畑と出逢った。 

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< 夏の夢 >



今年の夏は偶然出会った、この一枚のひまわりの絵で閉じたいと思う。 毎年この季節に一度は聴いてみたいこの曲と共に   



< 夏の終わりのハーモニーを聴きながら >
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 

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2011年8月12日 (金)

旧盆と青リンゴ、そのころまだ麦茶

   

毎年今頃の時期になると、目が自然に探しているものがある。
それは昔この時期によく食べた青林檎。 夏の終わりにリンクした、蚊帳の匂いが甦る甘酸っぱい味覚の記憶だった。この青林檎を見つけたのは偶然訪れた駅前の果実店だった。高級果実がたくさん並ぶなか、その中にわりと無造作に並んでいたのだった。
今思えば店の主人に 『これ、食えるの?』 と、実に変な質問をしてしまった。それはいままで何度かスーパーで見かけたことはあったのだけれど、同じ質問をするといつも食用ではなく、お盆の飾り用だという返答ばかりだった。僕にしてみればいつものことだったのだが、考えてみれば
ここは果実店である。 なんて事を訊いてしまったのだろうか。
  

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< 静 物  Ⅰ >
山形県米沢市 [ 夜の書斎にて ]

   
 
遠いむかしこの林檎との取り合わせは、子供だったのでもちろん麦茶だった。
何十年ぶりの再会に今回は麦酒と合わせてみる。グリーンの組み合わせを考えると、やはりこのモルトビールであろう。近年僕も少しは大人になれたのだろうか?などと考えながら一口飲んでみたのだが。
あたりまえの事だけれど、林檎は僕の心象風景を写す事なく、ただただ青いままだった。

 
そう言えば、さすがに果実屋である。
僕が無造作に選んだ3個の林檎を丁寧に入れてくれたのは、取っ手のついたポリの袋ではなく、白い紙袋でもなかった。それは昔懐かしい、
少し厚手のきなりの紙袋だった。今時では不器用とも言われそうな、昔ながらのゴワゴワした感触がまたその気にさせてくれる。そのまま僕はその中に入っている3個の青林檎と共に昔へとタイムスリップしたい気分だった。
   
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今の時期、懐かしい写真と青林檎の取り合わせも、昔の記憶を持っている僕にとってはそんなにかけ離れた、ミスマッチな組み合わせではないのだろう。

モルトビールがなくなると、今度はアイラの気分だった。
このアードベッグ、ボトルのデザインはそれほど目立たないのだが、これもなかなかの曲者である。彼との出逢いは丁度一年前に遡る。書斎を訪ねてくれた先輩が、イギリス帰りの友人の土産だと差し入れてくれたものだった。その時先輩は『飲んでいてもいいけれど、正月に飲む俺の分も残しておけ』とだけ言って帰って行った。何と言っても先輩の云い付けである。律儀な僕は彼に対して書斎床下収納庫にて正月までの蟄居(僕自身の為にも)を命じるしかなかった。

待望の正月、今度は先輩の家に招待された。
僕は喜び勇んで先輩の前で封を切ったのだが、先輩自身アイラが苦手だった事をその時初めて知った。長いおあずけの後で知ったこの事実は、少し嬉しいものだった。何故ならば、このリッター瓶を一人占め出来ることが分かったのだから。下の絵は700mlのボトルだ。やはり日本ではリッター瓶は手に入りにくい。
一般的にメジャーなボゥモアやラフロイグを飲み慣れた人間に、再びアイラとは何ぞやと問いかける、特異的な存在なのかも知れない。

   
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< 静 物  Ⅱ >

   
中央の写真、自転車に後ろ向きに跨っているのは実は僕なのだ。
そして齧った青林檎と古い写真たち、それとアードベッグ。  こんなシュチュエーションにはクレモンティーヌのこの曲。

すこしアンニュイな旧盆の午後の匂いが良く似合う。
 

< Lete ~ 夏 を聴きながら  >

  

  

  

  

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2011年8月 6日 (土)

盛 夏

 

今年の夏も明後日で立秋を迎える。
7月に入り昨年を彷彿とさせる暑さだったが、先々週の台風が過ぎてからは近年になく涼しい夏が過ぎていた。けれども、ここ3~4日はようやく『夏』も例年の記憶を取り戻したようである。
 
 
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< 何気ない日常の夏風景 >
山形県米沢市

    
僕なりには先週の涼しさがずっと続いてもらっても、『いあんばいだ、いっこさすけね!』 (イイ感じなので、一向に構わない) のだったが、季節というものは時期的にそれらしくなってもらわないと、やはり大丈夫なのかと幾許かの不安は募るものである。それに気候相手の商売である農家の人たちだって、おおいに困ることだろう。


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< 目の前にあるいつもの日常風景 >

 
  
秋は毎年、夏の後ろに隠れるように、最初は少し遠慮がちにやってくる。
けれども、ある日突然ににその存在をはっきりと主張しはじめるのである。例えば名ばかりの残暑と思う頃、突然吹いてくる風にハッとさせられるように。
最近ぐっと日が短くなったのに気が付く。そういえば確か、立秋は夏至と秋分の中間地点だったような気がする。だとすれば日の出、日没の時間的シュチュエーションは連休のあたりの立夏と同じ感覚のはずである。けれども気温自体が違うせいもあるだろうけれど、僕なりには日没の印象はずいぶんと違う。

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僕の住むところは、いわゆる地方の小さな街なのだが、なかなか捨てたものではない。
それは街灯の明るさがあっても、これだけの星が見えることだ。恐らく東京などの大都会では、さそり座の赤い心臓と言われるアンタレスすらも見つけるのは困難な事だろう。

  
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  <惜しむ夏 さそりを眺めて寝そべる芝生にて >

  

誰でも知っているこのさそり座は、夏を代表する星座である。
この絵を切りとったのは日没から2時間程経った午後9時頃だろうか。この時期星座のある画面の中心は、もはや真南ではなく南南西なのだ。前記したアンタレスは僕の好きな恒星の一つだ。さそり座の中で一番明るい赤色巨星で地球からの距離は約550光年。つまり室町時代あたりにこの星から発せられた光がようやく長旅を終え、当時昔人も思いもつかなかったデジカメのセンサーなる物にすい込まれて、今こうしてこのアンタレスの絵が出来ている。
そして今この瞬間に、この星が超新星爆発を起こして消滅したとしよう。
それを人類が実際に目撃できるのも、やはり550年後なのだ。現時点で物理的に最速である光のスピード。ビックバンによって形成された宇宙の広さ。そんな事を想いながら、空間(時空)についての理論が記されているアインシュタインの特殊相対性理論をひも解いていくと、やはり空とは昼夜の二面性を持ちながらも、且つもの凄い奥行き (月の約30万キロ~∞光年) があったりして実におもしろいものだと思う。
  

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今の時間見えているこの星座も間もなく見えなくなり、同じ時刻に東の空にミニチュアのひしゃく星のようなプレアデス星団が見えるようになると、いよいよ秋も本番(寒露)へと流れてゆく。

季節(Season)の便りを”そら”からも受け取ってみる。
これもまた、たまにはいいものだ。

  

  

  

  
  

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