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2011年6月の記事

2011年6月30日 (木)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅱ)

 

6月5日
いままでその日は何度か通り過ぎてきたけれどついに今年、過去の日とその曜日がマッチングしてしまった。閏年の時は平年より一つ早く曜日が進むので、それはもう6年も前の出来事だったのだろう。
僕自身の為にも今月のうちに、必ずここに記しておかなければならない記憶があった。

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当時僕はある車を所有していた。それは国内の某メーカーがあるレースに出場するために開発した車で、その頃僕にとっては一度は操ってみたい憧れの鉄の馬だった。初代の型の新車が欲しかったのだが、モデルチェンジの3ヵ月も後の事でやはり中古しか見当たらず、しかたなく当時現行モデルであったこの新車を購入したのだった。

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クルマに詳しい御諸兄ならば御存じだろうが、いまから10年程昔は当時の運輸省により、市販車のエンジン最高出力は280psに規制されていた時代だった。しかしこの車は本来レース仕様なので、市販の為その規制に合わせて箍をかけていただけだった。だからそれを少し弄るだけですぐに400psを超える基本性能を持っていた。だがもうその時点で所詮市販車としての強度しかない他のパーツが、悲鳴を上げて壊れていくのだが。

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趣味に没頭する男は困ったことに、結果よりもまさにそこに至るプロセスを大事にする生物でもあった。エンヂンに火を入れるというのは、
ご諸兄方が単なる車のエンジンをかける事と、要件的にはまったく変わりない行為なのだという事を御理解いただきたい。

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まだ幼かった二男が、松葉杖をついて退院してきた僕に言った。
『ジーテーアールでころんだのぉ?』と。 それはいつも自転車や走ったりして転んでばかりいる彼らしい言葉だった。 
僕は、『あぁ、そうだ・・・ころんでしまったんだ・・・』 と言って彼の髪がくしゃくしゃになるほど撫ぜ廻した。
僕にとって繋がれた命をしみじみと感じた時だった。
その頃、下の文章と出逢った。それは濾紙に水が沁み込むように僕の心に入ってきた文章だった。
   

< 願 い >

誕生は死への旅立ち

いつか死を受容するのは命の約束

それが、無残で残酷なものでないことを

安らかで穏やかな終焉である事を

作者不詳

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今回はトークンまで解析するようになった、最近の検索エンジンロボットの目をかいくぐる為に、マニアックな単語が含まれる部分を絵として処理したので、ますます読みにくくなってしまった事をお許し頂きたい。    筆者(記) 

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2011年6月22日 (水)

夏 至 の頃

 

子供の頃より、夏至と冬至には特別な思い入れがあった。
それは冬から夏、夏から冬にむかって、地球という天体が大きく向きを変え始める日だったからだ。実は遠い昔、少年だった僕には天文学者になってみたいと言う夢があった。そんな思いがあって小学生の頃から、天文学をいろいろと独学で学び本をひも解いていたのだった。当時小学校の先生ですら一番陽の長い日と短い日としか知らなかった時に、僕の目には月のあたりからの眺めだろうか、地球と太陽との位置関係がありありと浮かんでいたものだった。そんな理由で特別な思い入れとは、純粋に天文学的なものでしかないのだけれど。

御存じのご諸兄も多いと思うが、地球の自転軸(地軸)は23.4度傾いている。それが地球に四季をもたらす、神が造り賜もうた奇跡の角度だという事をその頃知った。もしそれよりも角度が少しでも深かったり、浅かったりしていたならば、この美しい日本の二十四節季はきっと生まれなかったにちがいない。
春分の日と秋分の日はそこに至るただの通過点なので、あまり興味はなかったのだが。宗教上の理由でお彼岸があり、祭日と言う恩恵にだけは浴してきた一人なのだった。もともと祭日のない6月と8月の祝日法改定を密かに望んでいるのはたぶん僕だけではないだろう。

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先日、友人宅に招待を受けた。
なんでも細君が5年程かけて作り上げた自慢の薔薇庭だそうで、メールの追伸にはカメラ必須とだけ記されてあった。この季節どこの庭でもわりとポピュラーに見かけるのが薔薇なのだが、さすがに彼のところのは凄かった。家の半分が薔薇で覆われているといってもいいくらいなのだ。そこを歩きながら、細君が薔薇の名前と特徴を細かく説明してくれたのだが。けれども僕にとっては種類があまりにも多すぎて、真ん中あたりからわけが解からなくなってしまっていた。

そんな庭の片隅で、片羽の妖精と出逢った。
そちこちに可愛らしいリスとかウサギとかが沢山いたのだが、薔薇の間から洩れる日差しの中で、白く光っている彼女に強く惹かれてしまった。
最初に見かけたのは、ちょうどこの反対側の右手後方からで、折れた羽根のあるべき位置に横顔が、そして大きく感じた左側だけの羽根が目に入ったからだった。
今この絵を見てふと想ふ。
たとえば右側の羽根が付いていたと仮定しよう。その陰になって横顔が隠れていたならば、きっと目に留まらなかったのではないだろうかと。
   
  

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< ストーリー >
山形県米沢市

 
この妖精を眺めていたら、ある事に対してまだ意地を張り続けている自分に再び気付かされてしまった。今はもうない右側の羽根は、ずっと以前に自分の中で失ってしまった何かと、重ねてしまっているのだろうが。何事も完ぺきである必要もなく、以前僕が暮らしていたデジタルの世界のように0か1、true か false のよう振る舞うべきではないことは知っていたはずだが。また昔の悪い癖が出てしまっていたようだ。


庭の奥で聞こえる友人の声で我にかえり、今度はリビングに通されて麦酒を楽しむ。
ふと窓辺に目をやりおどろいた。おそらく夜の灯りのせいだろうか、薔薇が室内を向いて咲いているのだ。なんと贅沢な空間だろうか、室内から眺める外の薔薇たちも実に美しいものだ。

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< 窓 辺 >

2011年初夏。

それは・・・・・

まさに薔薇のかをりが運んでくれた今年の夏至だった。

 


< さくらんぼの実る頃 > を聴きながら


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< 2011 夏至の記憶 >

   
昔人は日あしの変化を畳の目に例えてゐた。
畳のある日本間でしか見ることの叶わない、風流な季節のうつろひの表現だとおもふ。

明日から畳の目一つか二つほど毎日日差しが短くなつて冬至へと流れてゆく。
そして冬至が過ぎれば、寒さはますます厳しくなるばかりなのだけれど。
そういえば2月も末頃の厳冬期、日中融けだした水たまりに夕方冷え込んできて、烏の足跡が出来る頃もう大分日が長くなっているのに気が付く事がある。

光の春はもう訪れてゐるのである。

 
 
 

  

    
 

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2011年6月19日 (日)

6月の花嫁

 

ここ一月ほどの間で、僕はどうもすっかり落ち込んでしまったようだ。
どうしても浮かび上がれなくて、もがきながら日々が過ぎてゆくという感じである。いままで気分が沈む事があっても、いつも1~2日
いや長くても2~3日でなんとか抜け出していた。しかし今回はもう4週間以上も続いていた。
なんだか真っ暗な海底に向かって累々と伸びる、負のスパイラルパイプの溶接目に袖口を掴まれ、それを下に向かってトレースされていくような気分だった。思い返してみるとここ1年近く僕の周りでは、あまり良くない事ばかりが起きていた。
義父母や知人が立て続けに亡くなったりしていた。それに追い討ちをかけるように連休が明けた途端にいくつかの事が重なってしまった。
そうなってくると普段あまり気にしないようなことも、やけに気になってくる。

***

その日は沈んだ僕の心に、蜘蛛の糸を垂らしてくれるのだろうと期待していた久しぶりの結婚披露宴だった。不用意に突然襲ってくる弔事とは違い、予定表に書き込める慶事は実にいい。従甥の宴であったが、気分が高揚する華やかなめでたい席で、懐かしい人たちとの再会も楽しみな事だった。

***

  
結婚披露宴に出席するのは、おそらく3~4年ぶりになるだろうか。今回は少し趣向が変わっていたというか、これが『今風』なのかも知れない。会場の入り口で半年振りに会う従兄夫妻、新郎新婦、新婦の両親に祝福の挨拶を済ませて席に着いていた。
      
少し早い時間だったので、僕のテーブルはまだ定員の1/3ほどしか来場していなかった。フト背中向けのステージに目をやると一番奥。おおかたメンバーがそろったテーブルには多量の飲み物(もちろんアルコール)と最初に旬彩と記してある7品程が盛られた皿が運ばれて、お互いに注ぎ合いながら宴会がスタートしていた。やはり周囲の人たちもその光景にびっくりしたような表情で、何気なく視線を運んでたようだった。

そしてその理由が判ったのは僕らもおおかたメンバーがそろった時だった。料理と飲み物を運び終えるとウェイトレスは『新郎新婦の入場までお時間がありますのでどうぞお寛ぎください』とだけ案内すると下がってしまった。少しのあいだ皆で開演したテーブルと、それぞれの顔を交互に見合わせていたが、テーブルきっての長老の掛け声で僕らの『寛ぎ』も程なくスタートした。
  

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< 華 >
山形県米沢市 
 

一番最後に到着したここのメンバーも、主役不在のフライング的な宴会を見てあっけにとられていたのだが、隣席の『まず、まず、まず』の声でたちまち仲間となっていた。
宴の次第では、司会者挨拶・新郎新婦入場・来賓祝辞・お謡い・両家代表謝辞でようやく乾杯となるのだが、その肝心な本番の頃には皆どの程度毒が廻っていたのかは、ご諸兄方の想像に難くないだろう。本来ならば乾杯までのこのプロセスは決して短い時間ではないのだが、今回は全然それを感じる事はなかった。これもそのもてなしという『演出』のねらいだったのかも知れない。
  
  

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< 父と娘 >

    
程なく乾杯も終了し、祝電披露・アトラクション・スピーチなど。料理もスムーズに運ばれて宴はワン・ツー・スリーと順調に進行していった。
いよいよお色直しとなり、父にエスコートされて退席する花嫁の後ろ姿を見て、今年の3月に記した”父と娘 (雛人形を見て想ふこと)”の記事を思い出していた。
キチンと背筋を伸ばして歩き出す花嫁。
隣を歩く父親の背中には慶びよりもなんとなく寂しさの色合いが少しだけ濃いような気がしたのは、たぶん僕だけだったのかもしれないけれど、その時の父親の胸中を推量る事はやはり、花嫁の父を経験した人にしかできないことなのだろう。
  

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< 誓い >

  
二人の披露宴は実に微笑ましく、友人らに祝福された幸せそのものの宴だった。そして僕自身縁起物と言われる(失礼!)6月の花嫁にお目にかかれたのも、幸運な事だったのかも知れない。
久しぶりに会う人々と弾む楽しく懐かしい会話の数々。本当に御無沙汰していた人とは、もう実に20年振りくらいの再会だったろうか。そして懐かしい顔ぶれが揃う中、幸せな二人を見ていると、自然に僕自身も幸せな気分になってゆくのだった。そして今まで暗く沈んでいた僕の心がようやく以て、ゆっくりと浮力を回復してゆくのを感じていた。
その感覚を胸に、これから二人して共に歩きはじめる若い二人の人生に幸多かれと祈りながら会場を後にした。
  
  
慶事とはいいものだ。
  
  
  
  
  
 
   

 

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2011年6月11日 (土)

shadow warrior (影武者)

  

春ごろ僕は記事の中でこんな事を記していた。

昔から世の中には自分と良く似た人が何人かいるとはよく聞く話である。
いずれこのLogに記したいと思っている事があった。
3年程前の事だったが、僕の場合単に似ているというレベルを超越した、知人は言うにおよばず息子すらも見まちがう程、酷似した人がこの同じ市に存在していたという事だった。過去形になったのには理由があった。一度会ってみたいと思っていたが叶わずして話はいつの間にか出なくなっていたのだった。傍から見れば当然どちらも本人なのだが、彼の取るエキセントリックな行動にはずいぶんと苛まれたものだった。
なぜならば50%の確率でその評価がなんの関係もない僕、に降りかかってくるのだから
。“

***

この続きにあたり、僕が一人でスーパーに出入りをするのは、ごく日常的な事であることを記しておかなければならない。
なぜかと言えば『旬』と言えば聞こえがいいが、いわゆるその季節限定の”アテ”を買いに行くのである。その目利きこそ僕にとっては非常に重要な事で、絶対に人任せには出来ないこだわりがあった。例えば最近では蛍烏賊、初鰹などだが、気に入ったものが見つかるまでの2~3軒ハシゴは本当にめずらしくはない。

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僕がその人物の存在を初めて知ったのは、仕事で関わりのある知人の話だった。
その人がスーパーで夕飯の買い物をしている時に《僕》と会ったのだそうである。そして会釈したそうなのだが、最初は無視されたと思ったと言うのが彼女の話である。顔や髪型は恐ろしい程似ているそうなのだが、その人物との決定的な違いは体型だったと話してくれた。


話を聞いたとたんにここ2~3ヵ月の間で3回ほど体験した、奇妙な事の理由が想像できた。
僕の知人が体験した事を、おそらくその人物の少なくとも三人の知人は体験した事なのだから。変なこともあるものだと思ったが、僕の中ではきっと何かの偶然なのだろうと単純に片づけてしまっていた。
  
奇妙な出来事の舞台は3回ともスーパーの店内だった。
すこし離れた所から誰かが立ち止まってこっちを見ている視線を感じ、フト顔を向けるとご婦人が満面の笑みを浮かべて挨拶してくれるのである。たぶん僕はその視線と笑みを撥ね返すような(あんた・・誰っ?)というような表情をしたのだろう、相手はひどく怪訝そうな顔をしてその場を立ち去っていった。
  
そんなことが、それから半年程の間にあと2回も起きた。
なぜか男性ではなくいずれも、30~40代と思しきご婦人という共通事項があった。そういえば挨拶されるに至る直前のような視線も、其処かしこで何度か感じていた。

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< 交差点ですれ違う二人の男 >
山形県米沢市
    
  photo by my second son:

信号が青になる。
僕は交差点の手前左側より反対側に渡ろうと、今まさに足を踏み出そうとしていた。
交差点の反対側に立っていたその男も、今まさにこちらに渡ろうとして同じ側の足を踏み出そうとしていた・・・




息子が僕と見間違えた事は前記したが、彼の話によればその人物の乗っていた車は奇しくも、我が家にある一台と同車種&同色だったらしい。おまけに運転していれば胸から下は見えないので判別できなかったのだろう。しかしそこまで一致するとは天文学的な確率だったのではないだろうか。
  
僕自身に特に実害はないのだが、こころの中では困った問題に苛まれていた。
それは彼のエキセントリックな行動がもたらす、周囲からの僕への評価だった。それらは僕が出入りするなどあり得ない場所だったり、変な時間帯だったり、とあるBarカウンターの片隅での言動だったりと実にバラエティーに富んでいた。
そういえば、彼は足を怪我してギブスと松葉杖の時もあったらしい。(整形外科での目撃談らしいが)怪我をしたらしいと仕事場を訪ねてくれた知人が、普通に歩く姿を見て人違いにびっくりしていた。
  

そんな周囲の話から、実際に彼と会ってみたいと思うようになった。
突然降って湧いたようなこの一連の出来事から推察して、転勤か何かでこの地に来たのだろうかとか。きっとご婦人相手の仕事をしているのだろうかとか。いろいろと想像を廻らしながら、僕も手掛かりが欲しくてコンビニの知人とか様々な人に声をかけていた。その時はもうこの地を離れてしまったのか、それから3ヵ月も過ぎたころから話が出なくなってしまっていた。
  
  
  
  
  
  
  
  

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2011年6月 3日 (金)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅰ)

  

昨年8月頃に記した"ノスタルジック・ストーリー"を彷彿とさせるやうな光景に、同じ頃に出逢ってゐた事に気がつゐた。
それは図柄が刻まれたり、外の景色が少しゆがむムラのある昔懐かしい硝子板だつた。模様が刻まれた面は雨や埃の影響を考へての事だろう、必ず内側に向けてある。その模様が織りなす触った時のあの懐かしい感触は、何十年振りだつただろうか。
こども心になんとも不可思議な模様だと思つてゐたものだが、それから大分経つてサッシ(サッシュ)の時代となり、厳冬の頃に窓に着いた水滴が凍つた時の模様に似ている事を思ひ出した。


こどもの頃、家には台所と隣の居間を仕切るこんな引き戸が一枚だけあつた。
形あるものとは壊れる運命にあるもので、僕は毎年決まつたようにどつかのパーツを割つてしまってゐた。硝子屋の職人もゐろゐろと苦慮してくれたのだろうが、全く同じ図柄の硝子がなかつたらしく、何年かすると画してパッチワークのような引き戸となつてをり、その頃からは割つてもさほど叱られる事もなくなつてゐたのだつた。
  

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< 旧 長谷川家 Ⅰ >
山形県山形市

  


先月読んだ"innei_raisann"の中で、Tanizaki氏の記述は日本建築の厠にまで及んでゐたのだが、この硝子を見かけたのがそれこそ、旧家の厠だつたのである。

昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行きとどいた厠へ案内される舞いに、つくづく日本建築の有難みを感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が休まるように出来ている・・・・・・・・・
まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう・・・・・・・
総てのものを詩化してしまう我々の祖先は住宅の中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って雅致ある場所に変え、花鳥風月とむすびつけて、なつかしい連想への中へ包むようにした。


昭和8年に記されたこのよやうな薄暗い厠は今ではその場所すら、探しのは容易ではなゐだろう。
  
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< 旧 長谷川家 Ⅱ >

 
 
今この建物は一般に公開してゐるのでそのやうな薄暗さはないが、人が途切れた隙にここの電気を消してみる。すると内側の電球の反射が消えて、今度は外からの光が木の額縁に入ったタペストリーのようにガラスの紋様を浮かび上がらせたのをいまでも良く覚えてゐる。

これらの絵は昨年の夏に切り取つたものだ。その後も何度か目にはいつてはゐたがいつもそんな程度で通り過ぎてゐた。ところが先日ある探し物をしてゐたら、ハタとこの絵で手が止つた。たぶんあの本との出会ひがなければ再びスルーしたであろうこの絵が、僕の中の記憶の海から引き揚げてきたのは、なんと蚊帳の匂ひだつた。
 

***

 
それは母方の実家で過ごした、子供の頃の永遠に続くようなあの長い夏休み。
今の子供たちはあまり喜びもしないだろうが、あの頃は西瓜を食べるのすらものすごい楽しみな事だつた。板の間で祖母の廻りに車座になり、皆ワクワクしながら包丁が入るのを待ったものだ。そしてほんの少しだけ刃先がはいると、”ビッ”と音がして西瓜が勝手に割れて歓声が上がり、そしてお腹いっぱいになるまで夢中で食べたものだった。
そういへばあの頃食べた青林檎。あれもその酸つぱさが夏の暑さ、入道雲を連想させるが随分前より見かけなくなつてしまつた。

そんな記憶の中でいまではめっきり縁遠くなった、蚊帳の匂ひを思ひ出してゐた。
’60年以前にお生まれのご諸兄には馴染みのあるあの緑色の蚊帳の匂ひ。縁取りが確か赤色か朱色だったような記憶があるが、僕の中で強烈に記憶に残ってゐるのはその色や形状よりもその匂ひなのだった。

蚊帳えの出入りのしかたも、伯父や伯母、祖母などからしつかりと指南を受けた。
ちょうど茶の間の隣に張られたこの特別な空間で、夜更かしが出来て大人達はいいなと思いながら、緑の霧がたちこめたように見へた明るい外界のテレビジョンのニュース、大人の背中を眺めながらいつしか眠りに落ちてゐた。

***

近いようで遠い記憶の頁である。
  
  
  
  
  
  
  

      

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