« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月の記事

2011年5月26日 (木)

ランチタイム 最後の客

 

僕がその店に足が向くのは、いつも二つの条件がかさなったときだ。
ひとつは仕事の都合で昼メシがだいぶ遅くなってしまったとき。それからもうひとつは日差しがある天気のよい日でなければならないのだった。

この店にはカウンター席や二人掛けのテーブルはない。だからかなり込み合う賑やかなランチタイムに4人掛けのテーブルに1人でいるのは、すこし広々としすぎていてなんだか落ち着かないのだ。
そしてもう一つはこのカーテン越しの日差しである。店内に差し込むやわらかな日あしの長さと角度で季節を感じながら、遅めのランチをのんびりと愉しむのが好きだ。そしてその時間帯こそ、この席が空いている確率がかなり高いのだった。

昨年初秋、木漏れ日&パスタ ( 遅めの昼食 ) かなり久しぶりに訪れてから、この店のメインパスタも今までに半分のほどの種類は楽しんだろうか。(牛肉のトマトクリーム煮込み)もウインクしていたが、今回は『生ハムの中辛クリーム煮』 Prosciotto di Maiale をチョイスした。
  

1105031

< 遅めの昼食 Ⅱ >
山形県米沢市

    
あいも変わらぬこの店の熱々パスタのもてなし。
表面のオイル分で湯気が閉じ込められているが、ここのスープパスタはかなり熱いので舌のやけどには注意が必要でなのである。そういえば最近まで僕はあまりと言うか、ほとんどスープ系のものは食べなかった。その理由は何だったのだろうかと考えてみると、どうやらだいぶ以前に某有名イタリアンレストラン(チェーン店)で供されたものに原因があるように思うのだった。
この店にスープ系のものは7~8種類程あるのだけれど、どれも絶妙なコクがあり、実に美味しいのだという事実を知ったのは、まだまだ寒い立春が過ぎた頃だった。

ここのランチタイムは11:00~14:00までで、それから夕方までは一旦”close”となる。
僕がこの店のドアを開けるのは決まってランチタイム終了の直前なので、茹で置きでないアルデンテのパスタにスープが絡められて運ばれる頃には、だいたい店の中は僕ひとりだけになっていることが多いのだ。

***

他の客が引けると主人がいろいろと話しかけてきてくれる。
(イタリア)の古道具が好きな彼はいろいろなコレクションを店の中にさりげなく置いているが、けっこうな頻度でそれらが入れ替わっているのを見つけだすのも愉しみの一つだった。
  1105033

< Due piatti >

  
  
この皿はさりげなくキッチンカウンターの上に置かれていた。
あまり見かけないデザインなので尋ねてみると、なんでもこれはディスプレイ用ではなく、実際に客に供するように注文して届いたばかりなのだそうだ。実際にパスタを盛り付けると外側のピンクかブルーのデザインしか見えず、食べ進めると下から文字柄が出てくる演出なのだと説明してくれた。話を聴いているとその演出を実際に体験してみたくなって、クラシコ風をブルーの皿にてと次回の予約を入れた。

  1105032

< Vaso Venezia >

  
 
この花瓶もイタリアを連想させる陽気なデザインである。
本来花瓶は花を立てるものなのだが、これは花瓶だけでも十分絵になる。この花瓶を見ていたらイタリアが舞台の宮崎アニメ、『紅の豚』のワンシーンが記憶に浮かんだ。

主人公の通称マルコは”飛ばねぇ豚はただの豚”と豪語しながら、ジーナに惚れている弱みも時々見え隠れする実にカッコいい男なのだ。
そして彼の幼なじみであり、マルコの事ををポルコと本名で呼べる人物のひとりであり、彼を密かに愛していたジーナの店(ホテルのレストラン)にも、確かこんな花瓶があったような気がするのだった。
  

紅の豚主題歌である  < 時には昔の話を >  を聴きながら




   
 

|

2011年5月16日 (月)

 ひとあし早い 『涼』 

 

さくらも散ってまだ10日程だが新緑もすっかり色味を増し、ここ一両日は初夏を思わせる陽気となっていた。
   
うっすらと汗ばむような季節になって来ると欲しくなるのが、これからの定番である冷たい飲み物だ。まだホットでも悪くはない季節なのだが、ひとあし先に初夏の気分をあのgrassで味わってみたいのだった。
冬から気になるグラスがあった。マスターの話ではアイスコーヒー用のグラスなのだそうだが、ちょうど東京スカイツリーのように基部と上部の形状が違うのだ。グラスは丸いものという固定観念を持った人が手に取った時、錯覚かと目をしばたいてしまう人もいるというのも頷ける。

11050200

< 魅かれるグラス >
山形県米沢市

   
   
   
このグラス、何故こんなカタチをしているのだろうか?と手に取りながら考えていた。少し理数系に偏ったマニアックな話となるが、上と下で長軸と短軸の比率の違う楕円形が90°の交差を作り、内側には山形の突起が作られている。それが捻じれずにまっすぐに延びているということは、幾何学的に考えても上部の山の間隔と下部の形状(間隔)をうまく調整しなければ不可能な事だった。たっぷりと手間のかかったデザイン的にも計算しつくされた美しい形の中に、造り手の意図を辿ってみるのだった。

眺めているだけでもいいのだが、以外にもこの造り手の真意(たぶん)は、何気なくマドラーでコーヒーをかき混ぜた時に耳から飛び込んできた。通常のグラスでは氷とグラス内面がぶつかる事があまり起きないので、お互い背中を向け合ってこすれるような少し鈍い音なのだが、これは違った。意図的に付けられたグラス内面の角と氷の角がキチンと共鳴して実に澄んだ涼しげな、まるで風鈴のような音色を奏でるのだ。
   
僕がそうだったように、初めてこのグラスに触れる人はきっとこんなリアクションを示すことだろう。
運ばれてきたグラスが円形でないことに気を留めるか、留めないかはその人なりとして、ミルクなりガムなりをそそぎ、何気なくマドラーを1~2回まわすとハタと手が止まるのだ。
そしてグラスをしげしげと見つめ、再び2~3回、そして反対まわりにまた2~3回。
そして口元には美しいものと出逢った時にだけ見せる笑みが浮かぶ事だろう。


1105020201

< 新緑の透過光 >

   
   
 
ひとあし早い涼、それは耳で愉しむ『涼』でもあった。
様々な角度からこの美しさをと味を堪能し、またマドラーを意味もなく2~3回廻してしてみたくなる。外の日差しに翳してみれば、新緑の透過光が氷との水色の中を通り抜けて美しいグラデーションも見え隠れするのだった。
豆は特に指定がなければ、深煎りのイタリアンブレンドを使うそうである。豆を変えれば水色と味覚も変わるわけで、グラデーションを眺めながら早くも次の豆はと考えていた。

      

11050203

< 一服の涼 >

   
   
僕のアイスの愉しみ方は少し変わっているのかも知れない。
ホットは必ずブラック(プレーン)なのだが、アイスは最初にプレーンを一口愉しみ、次にミルクを半分だけ注いであまりかきまぜないまま一口、そして残りのミルクとガム半分いれてマドラーでかき混ぜるのである。
   
いつの間にか八十八夜から立夏も過ぎ、来月の芒種を過ぎるころまではまだ、梅雨の鬱陶しさもない。さらに新緑が日に日に色濃くなり気候的にも過ごしやすく爽やかな季節なのである。

   
   


< 放課後の音楽室 > を聴きながら

   

 

 

 

 

|

2011年5月 8日 (日)

さ く ら の頃 ( 2/2 )

 

今年の春祭りは秋に延期となったこともあり、比較的静かな5月のスタートだった。
こんなにのんびりとさくらを眺めるのは何年振りだろうか。下の絵、山肌の紋様は市内屈指の高さを誇るスキー場である。標高は確か一番高い所で2,000m程あり、真冬の雪質は北海道のスキー場にも劣らないパウダースノーが堪能できるゲレンデである。地元の僕が言うのも少し憚られるが少しだけアクセスが不便で、シーズンインのまだ他のスキー場での滑走が出来ない時と、近隣のスキー場が閉鎖されてから連休後までが込み合うスキー場なのだ。
荒天時などは強風でリフトはしょっちゅう止まるし、(風に揺られながら乗ったまま動き出すのを待つしかないのだが)標高の高いぶんその寒さたるや、そこいらのスキー場の比ではないのである。しかしながら好天の日には、この山形県の一番南端このゲレンデから、一番北端の鳥海山や市内を眺めながら、一気に降りる全長3,000mの滑走は実に爽快なものだった。    
    

11050101

< 春の原風景 Vol.2 >
山形県米沢市

  
この白い紋様は"白馬の騎士"とか"馬上の謙信"と呼ばれているもので、雪解けとともに現れて春祭りが近いことを教えてくれる。以前農作業の基準だとも聞いた事があるが、春を待ち焦がれるこの地方の人にとっては、それこそ春の原風景なのだろう。
そう言えば地元酒蔵のCMで、祭りの風景のあとこの白馬の騎士が画面に顔をだし、『人々はこの祭りで長かった冬を忘れる』と言う僕の好きなフレーズがあった。そして締めくくりには、『祭りに乾杯!』というのをちゃんと忘れていなかったものだった。そしてもう少し時間が経って、この紋様が見えなくなる頃には初夏の訪れである。

***

この連休に読もうと思った本が3冊あった。
さくらの下、それもチラホラと花びらの舞い落ちる中で。アイラ・モルトをお伴に、やわらかな春の陽光の中で夢中で本を読んだ。それはずいぶん、いや近年体験することのなかった贅沢でのんびりとした時間だった。

その中で特に印象深い1冊の本と出会った。それは『inei_raisan』という『J.Tanizaki』氏の著書だった。昭和8年に書かれたこの本はタイトルに旧漢字が使われていたりして、少しとっつきにくい印象があるかもしれないのだけれど、光と翳を扱う職業の人は必ず手に取るという意味が読んでみると良く解る。

    11050102

< 於:さくらの木の下 >

    
読み進めていって思ったのが、氏のあくまでもディティールにこだわったものの捉え方である。それこそ漆器・醤油・漱石と食べた羊羹・蒔絵にいたるまでことこまかに記されていた。以前友人から僕の絵はすぐに判ると言われたことがある。話を聞いてみるとどうも切り取り方が普通とは少し違うらしく、先程の漆器~蒔絵など小品を切り撮るとそれが顕著に表れるらしいのだ。
確かに文字を追いながら僕は5、6度はうなずいてしまっていた。ひょっとすると僕の前世は氏の書生だったのかもしれないなと、舞い落ちる花びらを見て思っていた。

その著のなかで氏がいみじくも言いきっているように、『陰翳=日本の美のこころ』なのであり、それ自体が大和撫子とサムライが持っている日本の美に対する礎であるように想える。日本人ならは一度それについて考え、想い、そして一度はふれてみるのも大切なことのように思うのだ。日本人として生まれて、その根底にあった自分の感覚的ルーツを一度は覗いてみることで、持って生まれたの日本人としての自分の感覚、そしてその礎の上にある現在の自分の感覚の繋がりが少しは判るのかもしれない。
 

***

    
さくら吹雪の中を歩いてみるというのは何年振りだろうか。
数ある花のなかでも、一番美しい散りかたをするのもさくらだと想ふ。すこし強めの春風に誘われて一斉に舞おちるはなびらを、さくら吹雪とは良くいったものである。

11050103

< さくら吹雪の中で >

    
さくら吹雪ももちろん素敵なのだが、風のない時、はら、はらっ、と左右にふれながら自由落下する花びらも独特の美学を持っているものだと僕は思ふ。なぜならばそのタイミングは時の風に左右される訳でもなく、神のみぞ知る時間なのだ。そして花が散る時にはそこにはすでにちいさな新緑が芽生えていて、これからも続く季節を連想させてくれるのだ。そんな安心感がさらに見る人を酔わせるのではないだろうか。

  
11050104

< '11 春の密かな楽しみ >

    
   

最後になってしまったが今回(5月)から、再びこのLOGの名称を変える事をさくらの木の下で考えていた。
 
囲炉裏端に始まり、光と影からこれで三度目なのだが、
理由はもちろん前出の本との出会いだった。
氏は薄暗さを空気の濃淡のような素晴らしい表現で捉えていた。
もちろん僕にはそんな能力は無いのだろうけれど
なんとなく薄暗さのディティールを知ってこそ、初めて光の諧調が解る気がしたのだった。

   

    

    

|

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »