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2011年3月の記事

2011年3月26日 (土)

やわらかな雨

   

春彼岸も過ぎ、本来ならばかなり気温が上がる頃であるが、寒い日が続いている。

その日は時折薄日の洩れる、あたたかな雨の日だった。
蔵のCaféにはまだ他に客の姿はなく雪が融ける音と雨の音が、この静かな空間に遠慮するように窓の外で囁き合っていた。
  
豪雪地帯ではない所にお住まいの方にとっては、窓の外を檻(オリ)のように囲んでいる丸太たち(細木)はきっと見慣れないものだろう。
これは雪囲いといって、窓ガラスや庭の木々を雪の重さによる損傷から守るものである。
新雪はふわふわとして軽い感覚があるが、それは10㎝程度までの話である。累計積雪が数メートル以上になる豪雪地帯では、雪の重さからそれらを守るために必須の設備なのだ。細木に背子板と呼ばれる半月状の板を縄で括っていく作業なのだが、職人の手がキチンと入った日本庭園などは全く別の美しさとなり、ついまた見とれてしまう。

今年の冬は雪が多い年だった。
この窓も屋根からの雪を考えれば、おそらく3/4程も雪に埋もれた事だろう。その時の薄暗さもまた、ここ雪国の『冬』そのものなのだ。
   

Spring_cafe

< 春のCafé >
山形県米沢市

   

だが季節は確実にあたたかな雨と共に、薄暗いCaféにワンクッションした春の陽光をつれてきていた。まもなく職人達が雪囲いを取り払えば、雪国の遅い春が訪れる。
  

これから季節は僕の生まれた月へと流れてゆく。
もともと今頃は好きな季節であるが、また別の意味でも忘れられない季節となってしまっていた。ちょうど1年ほど前にも、こんなあたたかな雨の日があった。それは誰にでもあるこころの隙間に、ゆっくりとゆっくりと沁みこんでいくやわらかな雨だった。

   

Spring_rain

< 春の雨 >

    

珈琲のかほりの中で窓の水滴に目をやりながら、そこに映すべき憧憬について思っていた。でもあいにく未だそれを持ち合わせていない事にただ、気づかされただけだった。
ひょんな事で僕の秤が水平線を失ってしまってからだいぶ経つ。
そんな秤に不定期に襲ってくる、ヨー・モーメントをかわすのも、だいぶ板についてきた。 だけどもときどき失敗して、上下すら判らないホワイトアウトに陥る時もあったりするのだ。先の休日、ここにある全ての記事を初めてレビューしてみた。その日は僕にとって特別な日であり、それを通じて客観的に何かを見てみたかったのかもしれない。
かなりの時間を遡ったあたりで気が付いたのは、ほぼヨー・モーメント≒記事の数という事実だった。
そして失われた水平線と秤にかかるヨー、そんな偶然の上でここにある全ての絵と文字と音楽が成り立ち、創られたという事に感謝しなければならないのだった。

窓の水滴の中に映るべきものを探しながら
   このゆったりとした空間と静けさにはコニー・フランシスの明るい声がよく似合う。

  

   

   

   

   

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2011年3月20日 (日)

リクエスト

   

再掲したこの絵は先月、 ( 立 春 ) 春への想ひ  と言う記事に組み写真で使用したものだ。
たぶん近隣県の方だろうか、この風景の位置情報に関するリクエストがあった。
ところがこの場所の説明がなかなか難しいのだった。
特に目標物のない山間の国道からさらに町道へと入り、小さな集落を抜けて山道の果てにこの高原はある。
いまはほとんどの車にナビが搭載されているだろうと勝手に解釈し、(北緯37°20′21″・東経140°02′55″)と言う
座標値と共に、かなり惑わしい返信となってしまったように思う。  
  Wind_of_plateau_01

< 郡山布引風の高原 >
福島県郡山市湖南町

   
先日どうしても思い出せなくていたこの山の名前が、ふと頭に浮かんだ。
『ぬのびきやま』という名前だった。そこには僕の返信よりも何十倍も親切な地図もリンクされていた。
            *郡山布引風の高原*         *布引高原 Wikipedia ヴァージョン *  
とくにWikipediaの[画像Galley]にある一番最後の2007年2月に赤津の国道294号線より撮影されたこの風景こそ、この高原と僕との一番最初の邂逅だった。

Wind_of_plateau_02
以前から猪苗代湖の南に樹立する風車が気になっていた。
そしていつか訪れてみたいと言う想いが大きくなっていた。一昨年の12月だっただろうか、冬の磐梯山を見てみたくなり出かけたついでに、そこへの入口だけでも確かめたくて、思しき方向へと僕の動物的カンを頼りに車を走らせた。そして出逢ったのが先程のWikipedia[画像Galley]にある風景だった。そこへ通じる道路は当然冬季通行止めなのだが、僕は入口を確保した満足感に浸りながら帰路についた。
  
雪解けもまちどおしく、再びそこを訪れたのは昨年の連休初日の事だった。しかしそこには冬季通行止め解除が明日だと告げる無情な看板が1枚、僕を冷たく迎えてくれた。

そして2年越しとなったこの地への悲恋は、5月になってようやく叶えられたのだった。
  Wind_of_plateau_03

         

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Requiem_2
   
    
    
   

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2011年3月15日 (火)

祈 り

 

2011年3月11日 
震度5強の長く激しい横揺れ。

電話とネットは一時的に不通となったが、電気や水道などの重要なライフラインは幸運にも途切れた訳ではなかった。初期微動での縦揺れもほとんど感じなかったので、だいぶ震源は遠いけど大きな地震だった、というのが最初の印象だった。

仕事場にはあいにくテレビがない。
ラヂオをつけてみるといつもの仙台Date-FMだった。アナウンサーが『先程非常に大きな地震がありました・・・』と言った直後に放送自体が途切れてしまった。嫌な予感がした。
たぶん2日程前にも宮城沖でけっこう大きな地震があったので同じ区域の震源だろうと思い、ずいぶん大きな余震が続くと気になりながらも仕事を続けざるおえなかった。
夕方に会った人は、太平洋側がすごいことになっていると教えてくれた。でも想像がつかない・・・・

  
その日、ようやくテレビの映像を目にしたのは午後8時過ぎの事だった。
  
Prayer

<  祈 り  >

    
   
僕の目に飛び込んできたのはラヂオではまったくイメージ出来ていなかった、想像を絶する惨状だった。
仙台市若林区。
そこは以前僕が住んでいた区であり、車で10分程のところであるが、仙台野菜のハウスが広がる見慣れた風景の場所だった。
今でもまるで悪夢のように記憶の断片に残るのはヘリコプターが津波の状況を中継していた映像だった。あらゆる物を飲み込みながら津波が進む先には、道路があり、そこにだけ動くものがあった。それはいまだそこを車が走っている光景だった。

まさか・・・の思いが的中した。
  
津波は現実に人の乗っている車をなんの躊躇もなく、まるでミニカーを並べてそれにバケツで泥水をぶちまけたように消し去ってしまったのだ。

ショックだった。
まるで映画の中での出来事のようにも思えた。
しかし、これは現実なのだ。
たったここから直線距離で70Km程しか離れていない場所で、今日起きた出来事なのだ。
このシーンは2回目の放送からは局の配慮でカットされていた。
この光景を目にしたヘリのパイロットとカメラマンはきっと、僕と同じ眠れぬ長い夜を過ごしたことだろう。
 
 
魚介類が好きな僕は釜石、陸前高田、気仙沼、女川、塩釜などをよく訪れた。
そして、美味しい海の幸で満腹した後は見知らぬ路地を散策するのが好きだった。
なかでも陸前高田市は細長い街で、特に海岸の大きな松が美しかったのが印象深い。
しかし、それらも全て跡形もなくのみこまれてしまった・・・

ニュースを見聞きするたびに百人単位で犠牲者・不明者が増えてゆく。
 
今はただ犠牲者に瞑目し、不明者の無事を祈るばかりである。


   
   

    

  *** 失われた2つのデッキ ***    
   
  
下の絵は僕の好きな場所の一つで、300メートル程も続く
広々としたこのウッドデッキの歩き心地が大好きだった。
今年2月上旬に何気なく撮ったものだったが、ひと月後のあの夜
ここが津波にのみ込まれるのをテレビで目撃することとなってしまった。
  Wooden_deck< 小名浜第2埠頭 >
福島県小名浜市
  
      
   
またこの絵は仙台駅前のペデストリアンデッキと呼ばれる通路である。
これも昨年12月に偶然に切り取っていた絵だった。
仙台(駅)の象徴と言える建造物で、ここから眺めるSS-30ビルの景色が好きだった。
ここも崩落の危険性があるとかで封鎖された。

Photo

< ペデストリアンデッキ >
宮城県仙台市

     

    

     

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2011年3月 8日 (火)

ワード (言葉) or トーク (会話)

   

最近、言葉について考える機会があった。

ことばは、もろはの刃。いままで人のことばで何度励まされ、勇気をもらっただろう。
そしていままで何人の人を、僕の口から放ったことばで傷つけてしまったのだろう。

言葉というものは、どれほど信頼できることなのだろうか・・・
そんな事をボンヤリと考えていた矢先、ある海外発行の経済記事がそんな心のストライクゾーンに、いきなりフォークボールを投げつけてきた。

それは心理学上、実際に相手の顔を見ながらの会話に比べ、言葉のみ(メールやTEL)では真意の30%しか伝わっていないと言う記事だった。でも、その解釈にはいろいろあって言葉を信じないよりは、言葉の 『完全性』 を信じないという意見が最も多かった。 僕もその通りだと思う。

要するに真意を確実に伝える必要のない話(事実のみの伝達)であれば、すべて電話・メールで事済むことなのだ。
これは内容によって電話・メールで済む話か、直接会って話(対話)をしなければならないケースかと判断する基準でもある。

ことば・・・
それがたとえビジネスの目的だったとしても、日本独特の煩雑な敬語、謙譲語、曖昧語や余計な四季の挨拶語などの裏に隠されてしまって、本来のメール(言葉)の真意の半分は失われているように思う。ましてや、ビジネス以外の目的ならばなおさらの事である。
   Gossip

< ゴシップ >
   
   

そんな事を想いつつ、心の暗い部分から水中の気泡のように浮かんできたのは、いままで僕自身の中で消し去って(葬って)しまったことば達のことだった。

その数はたぶんKeyで打ち込んだ言葉よりも、語ったことばよりも、もっともっと多くのことば達だった。
それらは誰の心にもある、心の暗闇に無理やり押し込んでしまったことばや、唇の中に閉じ込めてしまったことばだったり。
或いは back_space_key で消した言葉だったり、耐えて語らなかったことばも幾つかあった。


そんな葬り去ったことばと比べてみると、全てが真実ではないが今まで自分が何気に語ってきた言葉のなんと軽い事だろう。

      



<人と時と風の中へ>を聴きながら


   

言えない事
   
今までで、一番いいたかったことは、
言えなかったことかもしれない。
今までで、一番忘れられない言葉は、
言えなかった言葉かも知れない。

時間はすべての記憶を薄いガーゼで包むように、
その輪郭をやわらげてくれるけれど、
記憶そのものを消し去る事はできない。
 
   
言えないことは、後悔なのだろうか。
言えなかったことは、
言わなかったこと・・・ではないだろうか。

<quotitaon S.E.N.S. poem>

     

    

   

 

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2011年3月 2日 (水)

父と娘 (雛人形を見て想ふこと)

   

男の子にとって、母親というものは特別な存在らしい。
それは幾人もが言うように、そして僕の目から見ても明らかな事実なのだと思う。
また父親にとっては『娘』というのも特別な存在なのだと、以前知人から聞いた事がある。それは残念ながら僕はもう、永遠に体験出来ない事なのだが。

Doll

< 雛人形 >
山形県米沢市

   
   
娘のひな祭りを祝う年代の頃はまだ、さほど意識はなかったと聞いた。
そして思春期を迎える頃から疎まれるようになり、かなり寂しい思いをしたそうである。その後成人式の頃になり娘と呑んだ時は、それはそれは楽しい時間だったそうだ。

彼、曰く 『お父さん!』と娘にお酌をされたときに、スイッチが入ってしまったのだと。

例えはあまり良くないが(この愛娘、どこのウマの骨とも分からん野郎に絶対に渡すもんか)と心に固く誓ったそうである。
このあたり、娘に対する父親の想いがきっと、『娘さんを僕にください』と現れる青年に対する、物凄い洗礼となって現れる時もあるのだろう。

いままで結婚式に何度か出席してきた。
いつも想うことだが、花婿・花嫁の父親は対照的な場合が多いように思う。
神前式は別として、花嫁(大切な宝物)とヴァージンロードを歩く父親の心境いかばかりか。

もちろんおめでたい事なのだが、左の腕に愛娘のあたたかな手を感じながらその上を歩く長いようで、短い時間。
きっとその時花嫁の父親は、彼女がうまれてから今日に至るまでの全ての事を、あのほんの短い時間に想い出しているのかもしれない。
 
  

<親父の一番長い日>を聴きながら

   
    
   
   

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