2018年10月10日 (水)

Wind・・・ココロの中を吹き抜けて行った風のこと

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風には確かに色がある・・・。
これはずいぶん昔のことだけど、偶然耳にしたラヂオで誰かが云っていた話。当時まだ社会に出てさほど時間の経っていなかった僕は、それは歌の文句か何かの話でそんなバカな事はあるものか!と思った事を覚えている。理数系の学校を卒業して、すべて計算上の世界で生きて(仕事)いたからだろうか。風と言われても風車を廻すような物理的な空気の流れである風とか、視覚的な趣を持った草木を揺らす風ぐらいしか思い浮かばなかった。
 
 
ここで映画のような表現をすれば、『それから十年以上の歳月がながれて・・・』とった具合。
 
  
時の流れというのは視野をグッと広げてくれたし、視力すらよくなったのかも知れない。
その頃には”風”というワードに感じるものは、以前の二つだけではなくて様々な意味合いを知っていた。予感や変化、柔軟性とか未来や時の流れ、風習や習わし、そして旅立ちの合図だったりもする。風はいつも新しい季節の訪れを教えてくれるだけではなくて、そっと背中を押してくれたり、何かで行き詰った時にフッと気分を変えてくれることもあるし、気になる人の消息をそっと届けてくれる。

 

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ピーター・ポール&マリー。
彼らの楽曲は小学校の高学年の時、従姉妹の影響で聴き始めた僕にとっては初めての洋楽だった。
中学の時には英語の成績はまるっきりダメだったけど、危なっかしい発音で歌えるようにもなっていた。
  
それからまた長い年月が流れ、家の中にP・P・Mの曲がリコーダーの音色で流れていた。当時中学生だった次男に、お前が何故この曲を知っているのか?と尋ねると、今度の課題曲なのだと音楽の教科書を見せてくれた。あの時の嬉しいような、懐かしいような、随分と齢を重ねてしまったような、妙な気分はいまでも良く覚えている。
ヴォーカルのマリー・トラヴァースが他界したことを知ったのは、それから間もなくの事だった。

 

Blowing in the Wind   (邦題:風に吹かれて)      - Peter Paul & Mary-

 

 

 

 

 

 

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2018年9月21日 (金)

曼珠沙華の咲く候

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今週になって日ざしの角度が随分と緩くなってきた事に気がついた。
それを教えてくれたのは、屋根のトップライトから床へと差し込む光だった。そんな光景は日々視界に入っているはずなのに、ある日突然それに気付くのは、散髪に行かなければと思い立つあのタイミングと良く似ている。
僕だけかも知れないけれど、ちょうど今頃の時期に突然湧きでてくる、あのメランコリックな感情は何なのだろといつも考える。
春と秋は特別な風が吹く季節。夏風とか冬風とはあまり言わないように、それらは季節の『極』と『極』との間を静かに吹く本当の季節風なのかも知れない。冬を通り越して迎える春と、夏を通り越して迎える秋。どちらも気温や湿度などの物理的な空気成分は、あまり大差がないに違いない。そうなってくると思い当たるのは子供の頃の記憶。それは春休みや冬休みよりも夏休みの終わりが一番淋しかった事を思い出す。あの頃の夏の終わりの感覚と言えば、荷物を纏めてサーカスが去っていった後のガランとした広場に佇むようなものだった。
 
そのサーカス小屋の中には何が詰まっていたのだろうか、ひとつ一つ思い返してみる。
入口に掛かる帆布生地のゴワゴワした幕間から覗く、高い三角天井。そこに映し出されているのは、古い映画のように少し色が褪せた夏だった。そこには僕の好きな青空に涌く白い入道雲・早い夜明けと遅い日没・蝉の声・風鈴の音・強い日差しとひまわりに朝顔・カブト虫にクワガタ虫・蚊取り線香とプールの塩素消毒の匂い・打ち上げ花火など。それらは遠い記憶といまだに密接に繋がっていた。それは本能の赴くままに裸で過ごしていた開放的な夏も終わり、涼しくなるにつれてその本能が服と共に主知に包まれていく。きっとそんな感覚だったのかも知れない。

 

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秋分も過ぎればまた昼と夜が少しずつ逆転する。
そして、みじか夜礼賛派の僕はそれと同じぐらいのタイミングで起床時間が遅くなってゆくだろう。
まだまだ陽ざしは強いけれど、時折乾いた風がゆるりと吹きぬけてゆく。
長袖に腕を通す事が多くなっていくこれからは、『赤』(ワイン)の恋しい季節の始まりだ。
そしてあと半月もしないうちに、最低気温がひとケタの朝も訪れる事だろう。

 

九月・・・・
解放的でめくるめく季節は過ぎ去り
これからは澄んだ空気のなかで
人にとっての想う季節の始まりだ

 自由人

 

 

 

 

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September Song は多くの人にカヴァーされている、人の一生を一年(12ヵ月)に例えたラヴソング。
この曲にはちゃんとしたヴァース(導入部分)があるのだけど、ほとんど歌われない事が多い。
CHETのアルバムではヴァースをギターだけが秋虫のように控え目に旋律を辿る。
そしてコーラスに入り、九月の晴れ渡る空のようなトランペットとのセッションが始まる。

September Song     Chet Baker

 

 

 

 

 

 

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2018年8月18日 (土)

立秋と処暑のはさまにて

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今年は処暑を待たずして空気の成分がハッキリと変わった。
梅雨時からはじまり、この夏の異常ともいえる暑さ。いつもの事とはいえ暦の上ではとか、名ばかりと言われている立秋。それを気の毒に思った処暑が早目に片肌を脱いだのかも知れないな、とついつい思ってしまった。今週に入って虫の音が聞かれるようになり、昨日の朝は湿度がいきなり30%も下がったような爽やかな風がふいていた。まだ若い頃この心地よい西からの涼風を”極楽の余り風”と呼ぶことを教わった。西方十万億土の遥か彼方から、秋を連れてくるこのそよ風を昔人達はいち早く、しかも敏感に感じ取ってきたのだろう。

 

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日本の四季は明確で、またそれに敏感な国民性からだろう。
四季の移り変わりを表現するのに、日本語ならではの様々な云い廻しがある。季節の先がけを表す”はしり”や、その季節に入った事を表す”めく”などもその一つだろう。夏のはしりとか冬のはしりとはよく言うけれど、春のはしりとか秋のはしりとかはあまり聞かない。秋めくと同じように春めくとはいうけれど、夏と冬に関してはあまり聞いた事がない。それに、季節の冒頭に接頭語的につける”初”とか”真”は夏と冬だけだし、”晩”は春と秋にしか使わない。
 
ずっと大昔のめくるめくような夏休みの記憶。だからどの季節の変わり目よりも夏から秋への移ろいが一番もの淋しい感覚がある。処暑を通り過ぎて半月程度は秋を十分に感じつつも、”夏が終わった”で総称されることが多いのかもしれない。

 

 

ビル・エヴァンス  トリオ  I will Say Good By

 

 

 

 

 

 

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