2018年6月30日 (土)

まるで 昨日のことのやうに (Ⅹ) 僕と四人の親父たち

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春先のある出来事を境に、自分の中で感覚が変わってしまった季節感。
普段は視・聴・触・嗅覚などでそれらを感じ取る事が出来るのだけど、今年は見送りの三振ばかりだった。まるで季節を感知する受容体に紗がかかってしまったような具合だ。そしてもがけばもがく程に、負のスパイラルに陥っていくような感覚に追いかけられながら、時間だけが漫然と流れていたような気がする。
それでも今年も間もなく折り返し点だよと、眠っていた心を蕩揺してくれたのは、真北の窓から差し込む朝日や夕日だった。

 

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この記事(絵と音楽だけは)はもう四月には出来あがっていた。
けれど文章が書けない。どうしても出てこない。もしも僕が締め切りを抱えたエッセイストみたいな生業だったなら、きっと煩悶とする日々を過ごさなければならなかったに違いない。
このLogのサブタイトルには『備忘録的 随想』とあるように、 後半へと向かう区切りとしてそろそろこれを完結させなければならない時期のようだ。
  
昔からこのLogに目を通してくれていた貴兄はご存じだけど、僕の父親は幼少期に他界してしまっていた。
それでもやがて人の父となり、人生とやらの奔りを説けるのは、それらを親身に教えてくれた四人の親父たちが居たからだったと心から感謝している。

 

前の記事である”七年目の通過点”を更新した頃、知人から一本の電話があった。
それは四人のうちの一人であるフーさんの訃報を知らせるものだった。一瞬耳を疑ったけれど手元の新聞を見て現実を突きつけられた。ショックだった。彼とはひと月前に呑んだばかりだったから。カラオケ嫌いの僕は彼の前でなら歌う事が出来た。酔いが廻ってくるとよく二人の好きな”昴”を仲良くワンパートずつ歌ったものだ。彼も同じくウヰスキーを好み、僕の家に呑みにくると、コレクションからの選りすぐりを、いつも旨い・旨いといってグラスを空けてくれた。
嗚呼、大切な人とまた一人、会えなくなってしまったとすっかり沈んでいた矢先の事。
あれは定休日の早朝だった。仕事場の掃除をしているとノックの音が聞こえた。ドアを開けてみると親友が立っていた。「こんな時間に、こんな所まで珍しいなぁ」とそんな会話の後、彼の口から告げられたのは、これも四人のうちの一人であった、カレの父である辰っつぁんの訃報だった。今まで具合が悪い話はなかったので、訊いてみると一昨日入院し、昨夜には急変してしまい、今朝急逝したとの事だった。お前には電話ではくて直接云いたかったと、自宅に戻る前に病院から真っすぐ寄ってくれたのだった。

 

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この歳になってもこういった別れに関し、あまり耐性のない僕は本格的に落ち込んでしまった。
夜中に必ず目が覚めて、そこから眠れぬ夜がずっと続いた。そんな暗闇の中で記憶の触手が深い淵から引き上げてくるのは、決まって二人の声と会話や仕草だった。記憶というのは実いおもしろい。あまりに幼すぎてボンヤリとしか記憶のない本当の親父。ある意味雑多とも言える現代の様々な人間関係の中で、顔と名前が一致しない人は僕の場合たくさん居る。相手から声をかけられて当たり障りのない天気の話などをしながら、頭の中で必死に検索しているなんていう事もしょっちゅうなのだ。けれども自分にとって大切な人の声や表情仕草は、鮮明な記憶という範疇を越えて、まるで目の前に居るかのように再現する事ができるのだから。

 

いま思い返してみると短期間に起きた二つの出来事は、僕にとって実の父親をなくした以上のダメージだったような気がする。
何とも言えない虚無感の中で、特に休日などは何かをしないではいられないような衝動に駆られていた。音楽を聴きながらアテもなく一日中クルマを走らせてみたり、午後になるのを待ちかねて、alcoholを口にしながらの映画鑑賞も何度かやった。それから単なる思いつきで数百kmも離れた街へと、ただ昼飯を食べる為だけに日帰りで出かけたりもした。何をやっても楽しくない事は自分でも分かっていたし、心が満たされる筈もなかった。結局のところ昔人の言葉通り、『人で出来た穴は人でしか埋められない』というのを、身をもって経験してしまったような気がする。
けれどその行動自体は二人から教わった通り、ムダになるものはなくて、素晴らしい映画作品にも出会えたし、仲間内での際どい乗り継ぎ小旅行も企画することになったのだから。

 

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ダンスとカラオケが上手くて、時々ひょうきんな仕草を見せるフーさん。
僕のサングラスを掛けて朴訥な印象を装い、とんでもない冗談を仕掛けてくる辰っつぁん。
そして二人との会話の中で教わってきた、世や人生の事に感謝を込めて。
 
 
 
まだまだ寒さが厳しい頃、ラヂオで耳にした作曲家エリック・サティー。
その生涯はどことなく二人に似ている部分があるなぁ~という印象をずっと持っていた。
そんな彼が作曲した美しい旋律に乗せて二人を送りたい。
   
 
ジムノペディ 第一番

 

 

社会人としての心構えや酒の飲み方、夜遊びの作法に至るまで教えてくれた伯父の Toku さん
クルマを操る楽しさや食べ物への拘り方を教えてくれた、隅田川の傍で車の修理工場を営んでいた叔父の Tameさん

 

もう四人とも会えなくなってしまった。
サヨナラ、またいつか会えるまで。

 

 

 

 

 

 

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2018年3月10日 (土)

七年目という通過点

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この場所に来たのは2011年12月以来約六年来のこと。
確か県道から分岐したこのつづら折りを抜ければ、広い海水浴場が見えてくる。そう思ってステアリングを切ったのだけど、やはり東北地方の殆どの海岸線と同じように地形が大きく変わっていた。(2018-02-26)
僕は日本海側の気候の土地に住んでいるから、冬の穏やかで明るい太平洋側の風景が好きで、真冬には必ず何処へと出かけている。いままで福島の松川浦や宮城の七ヶ浜、石巻、南三陸町、気仙沼や、岩手の陸前高田、大船渡、釜石などを巡ったけれど、以前からの美しい海岸線は、もうほとんど見られなくなっていた。



毎週日曜日の昼、可能な限り見ている番組がある。
NHK東北の”被災地からの声”という番組だ。震災の年の夏頃から始まった番組だけど、各被災地を廻りながら、事前に取材のアポを取ることなくその辺にいる人から話を聞くという形式で進行してゆく。だから突然取材された人は本音を語るし、それがよけいに心に響いてくる。この番組も一昨年あたりから内容を少し変えて、以前取材した人がいまどうしているのかにスポットをあてるようになってきた。取材を通して感じた事を最後に担当キャスターがまとめてくれる。
彼は人の流れがお金を生み、お金の流れは物の流れを生み、復興をより加速させるのだといつも最後に締めくくる。寄付や義援金の時期が過ぎたいま、同じ東北人としてこれからもずっと出来る事は、とにかく機会あるごとに東北太平洋側に足を運ぶことなのだろう。

 

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僕が今回ここに来た理由。
六年前の白いコンクリートの家屋基礎だけが広がるあの茫漠とした風景。それがどんな風に回復を遂げているのか自分で確かめてみたかったから。それにあの時は灯台への道が地震で崩れて通れなかったけれど、三年前に復旧した事ををラヂオが教えてくれた。初めての灯台は元に立つだけでも海面からは相当な高さがあり、フェンスに近づくことすらで出来ない。受付の人に灯塔の中には螺旋階段があって踊り場からの眺めも素晴らしいと勧められた。けれどもあまりの高さと狭さで一周どころか、踊り場にすら踏みだす事も出来ず降りてきてしまった。

 

 

 

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今は防波堤となってしまった新しい海岸線は、こんなにも広々とした海水浴場だった。
この時の事はいまでも鮮明に覚えている。冬至の頃の日暮れは早い。だいぶ傾いてきた陽射しの中で子供に何かを話している父親がいた。彼が身振り手振りを交えながら話していた事は、ここで一体何が起きたのかという事なのだと、遠目で見ていた僕にも容易に察しがついた。あの時ははまだ小さいから内容はあまり分らないのかも知れないけれど、いつかその子が父親になった時にきっと同じ話をしてくれる事を願いながら。
 
 
一昨年は5年の節目だと各局がこぞって特集番組を放送していた。
あの年は石巻の復興屋台村で昼メシを食べていた。定食屋の店主や常連客の話を聞いて、現場(現地)では5年という日は節目でもなんでもなく、ただの通過点なのだという事を教わった。
そして神の火を弄んでしまった愚かさ。火伏せに携わる現場関係者の日々の、命がけの努力に一刻も早いご加護があらん事をただ、ただ祈るばかりだ。

 

 

明日この東北には七度目の祈りの時間が流れる。

 

 

 

 

 

 

 

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2018年2月28日 (水)

WABI・SABIといふ日本の美意識

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日本の美意識などと大きくでてしまったけれど、それを日本人としてキチンと説明出来るだろうかと、そんな思いをかねがね抱いていた。
それを考えてみるきっかけとなったのは、昨年末の占いについて書いた記事だった。それを読んだ知人が、今度は動物占いというのを教えてくれた。ふぅ~ん、とばかりに僕が割り当てられた動物(たぬき)の欄を見て、思わずうなってしまった。14項目ほど列挙されていた(たぬきの)性質というか、賦性が10項目もあてはまる。まるで誰かに自分の内面を見透かされたような妙な気分になってしまった。その精度といったら昨年買ったⅤ星Ⅲ心占いを遥かに凌ぐものだった。
その中に”古いものが好き”と書かれていて、あっ!と思った。
僕の場合、古いものといっても骨董の類では実用食器のみで、一番好きなのは文化財などの古い建物を見て歩くこと。いま思うど20代で興味を示した記憶はないけれど、30代になる前あたりからだろうか、自然に足が向いてしまうようになっていた。
そこで出会えるのは決まって、時を経ることで纏うつつしみ深い美しさであり、穏やかな佇まいのその奥から、昔の賑わいが聞こえてくることだってある。

  
WABI・SABIについても調べてみるといろいろな解釈があって、どれももっともらしい事が書いてある。
さびとは、いわずもがな時間の経過によって、物事がさびてゆく、さびれてゆくというのが正しい解釈なのだろう。そこには枯れた渋い趣や、古びて味わいのある風情の中には、奥深さや豊かさまでも宿っているようにも思える。
ところがわびともなると、室町後期から江戸時代にかけて茶の湯の中で理論化されたと書いてある。けれど茶道を全く知らない僕にとっては、これも言ってる事がさっぱり分からない。それよりも、さびを受け入れて自分のものにしようとする前向きな形を’吾がさび’と言い、それが転じてWABI・SABIとなった説の方が、よほどイメージしやすいような気がする。

 

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例えば旅行などでどこかの街に宿をとる場合に、新築のホテルと築百年を超えるような老舗のホテルがあったとしよう。僕は予算が許せば老舗ホテルを選ぶタイプ。
冒頭の老舗旅館の魅力はなんと言っても、隅々までキチンと手入れが行き届いた古さだろう。
気の遠くなる程の人が触れただろうと思わせる階段の手すりや引き戸口。磨きこまれた黒く光沢を放つ廊下を見ていると、スリッパで歩くのを憚られるような気さえしてくる。廁もちゃんと下駄がしつらえてあるからと思い、売店で白足袋を探したけれどあるはずもなかった。


いまどきの窓は硝子の存在さえ感じさせない程の透明感があるものが多い。
そんな中でこの昔ながらの歪んだ窓ガラスも良いものだ。室内から外を見ても、またその逆でも、現代の硝子にありがちなあけすけな眺めではなくて、超極薄のレースというか、僅かに紗がかかったようなほど良い目隠し感がまたこういう建物の風情なのだろう。

 

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話は全く変わるけど遠い昔、十四番目の月という曲があった。
当時まだまだ若かった僕は、満月(十五夜)の一歩手前、つまり完成の直前が一番うれしく楽しいような心境で、日々生活していたことを思い出す。それから長らく歳を経て、むしろ今では一番の盛りをすぎた頃の状態を愛でるような、心境に変わってきていた。
それらは、あぁ、昨夜は満月だったなぁ、と見上げる十六夜(いざよい)の月だったり。
満開だった桜がわんわんと散った後に、深緋(こきひ)色の額と、萌えだした葉の裏葉色が合わさって醸し出すあの何とも言えない葉桜という日本の色調だったり。
時はとどまる事はなく、色鮮やかだった日々も永遠には決して続くことはなく。その色あせたからこその美しさを愛でてみる紅葉だったりする。
また時には船の航跡が消えてゆくのを少し高い所から眺めてみたりと、そんな薄れゆく感じもきっと僕にとっては、WABI・SABIの風情なのかもしれない。

 

 

 

 

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